本多正之
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永7年(1630年)[注釈 1] |
死没 | 元禄元年2月28日(1688年3月29日)[1] |
別名 | 忠左衛門(通称)[1] |
戒名 | 秀金[1] |
墓所 | 牛込の浄泉寺(『寛政譜』時点)[注釈 2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多正勝 [1] |
兄弟 | 正好、女子(戸田氏豊妻)、女子(野間成大妻)、正之 [1] |
妻 | 正室:船橋相賢の養女[1] |
子 |
弥三郎、女子(本多正芳妻)、女子(高木清胤妻) ほか 養子:求馬、正芳 |
本多 正之(ほんだ まさゆき)は、江戸時代前期の旗本。本多正純の孫にあたる。正純に連座した子・正勝の二男として、配所の出羽国横手(現在の秋田県横手市)で生まれる。のちに赦免を受けて3000石相当の大身旗本となった。
生涯
[編集]本多正之は、江戸時代初期に徳川家康の側近として活躍したものの、徳川秀忠の代に失脚した本多正純の孫にあたる。
本多正純の改易と一族の配流
[編集]元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩15万5000石の藩主であった正純は、出羽国山形藩最上家改易のため出張中に改易を命じられ、同国由利(現在の秋田県由利本荘市周辺)に移された。正純は5万5000石を支給すること(本荘城を中心とする「本荘藩」への減転封[2][3])を示されたが固辞したといい[4][5][6]、一般に「配流」と表現されている[5][4]。元和9年(1623年)に大沢(現在の大仙市大沢郷地区[7])に移され、賄料として1000石を与えられた[4][5]。寛永元年(1624年)、久保田藩主佐竹義宣に預けられた[4][5]。
正純の嫡男であった本多正勝は、父の処分に連座し、出羽への配流をともにしている[5]。正勝には正室(戸田氏鉄の娘)との間に生後間もない長男(本多正好)があったが、正好は父らの配流後、外祖父の戸田氏鉄のもとに引き取られている[5]。
義宣は、横手城代・須田盛秀に正純・正勝父子の身柄を預けた[8]。以後彼らは横手(現在の横手市)に住し[4][5]、1000石が支給された[5]。横手城の三の丸に相当する高台に本多正純(上野介)父子を幽閉する居館が築かれ[8]、のちに父子の墓が設けられたため、この高台一帯は
生い立ち
[編集]本多正之は、寛永7年(1630年)[注釈 1]に正勝の二男として横手に生まれた[1]。『寛政譜』によれば母は「某氏」とある[1][注釈 4]。本多正勝は、政之の生まれた寛永7年(1630年)に死去した[5]。
のちに[注釈 5]「所縁」のある尾張藩付家老の成瀬正虎[注釈 6]のもとに引き取られ、正之は成瀬家の所領である尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)に住した[1]。
赦免から大身旗本へ
[編集]寛文4年(1664年)7月24日に赦免を受け[1]、同年10月15日に徳川家綱に初めて拝謁[1]、12月27日に蔵米2000俵を給されて寄合に列した[1]。
延宝3年(1675年)1月26日、使番となる[1]。同年12月26日、布衣を許される[1]。
延宝5年(1677年)2月9日、将軍の命により、法皇御所[注釈 7]と女院御所[注釈 8]の造営の奉行を務める[1]。任務を成功させ、法皇・女院から褒美を受けるとともに、江戸帰任後の12月7日には幕府からも時服3領などの褒賞を受けた[1]。12月19日、普請奉行に任じられる[1]。
延宝7年(1679年)12月10日、駿府城の定番に任じられ[1]、この際に遠江国山名郡・駿河国富士郡内で1000石の知行を加増された[1]。元禄元年(1688年)2月28日、駿府において死去、享年59[1]。牛込の浄泉寺に葬られた[1][注釈 2]。
系譜
[編集]『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、養子も含め三男三女が記される[15]。( ) 内は『寛政譜』の記載順。また、養子についても『寛政譜』の記載に準じ「二男」などと数える。
- 正室:船橋相賢の養女
- 生母不明の子女
- 長男(1):本多弥三郎 - 早世
- 女子(4) - 本多正芳の妻
- 女子(5) - 高城清胤の妻
- 女子(6) - 尼となる
- 養子女
補足
[編集]- 本多正芳のとき、正之の駿河の知行地は下野国塩谷郡内に移され、2000俵の蔵米知行は安房2郡内2000石の知行地に改められており、3000石の領主となっている。
- 『寛政譜』編纂時まで、この家は正之=正芳=
正庸 ―正安=正命 ―正峯―正収 と続いた(―は実子、=は養子関係)。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 没年と享年から逆算。
- ^ a b 浄泉寺は現在の東京都新宿区喜久井町に所在していたが、明治期に寺院の合併・移転を経て、現在東京都中野区上高田にある宗清寺がその系譜を継ぐという[14]。墓所の現状(移葬・合祀などがあったか)については別途参考文献が必要である。
- ^ 古くは「上野台町」という町名もあったが、現在は横手市城南町の一部[10]。
- ^ 法名(院号)を「桂光院」といい、横手の名主の娘であるという[11]。
- ^ 本多正純は子の正勝よりも長命を保ち、寛永14年(1637年)に横手で没した[4][5]。正之が成瀬家に引き取られた時期は『寛政譜』では不明である。
- ^ 『寛政譜』では「所縁」が具体的にどのようなものかは記されていない。ただし少なくとも縁戚関係であり、正虎の父・成瀬正成の後妻が本多正重(正信の弟。すなわち政之の大叔父)の娘である[12][13]。なお、正虎自身は正成の前妻である森川氏俊の娘の所生である[12]。
- ^ 後水尾法皇。
- ^ この時点で存命の女院は後水尾天皇の中宮であった東福門院(徳川和子)。
- ^ 使番在任中、藩主が若年(上杉勝千代(のち宗憲)の米沢藩国政監督の任務をおこなっている
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.709。
- ^ “由利郡”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ “本荘町(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e f “本多正純”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.708。
- ^ “本荘藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ “大沢郷宿村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ a b “上野台町”. 日本歴史地名大系. 2023年8月31日閲覧。
- ^ “本多上野介正純公を学ぶ市民の会”. 横手市. 2023年8月29日閲覧。
- ^ a b “上野台町(近世~近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
- ^ “本多弥八郎家の系図”. かな文庫 (2022年6月11日). 2023年8月31日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第九百四十八「成瀬」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.993。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.714。
- ^ “宗清寺。浄泉寺を合併した松雲寺を合併、白翁大黒天”. 猫の足あと. 2023年8月30日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.709-710。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百二十一「石川」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.738。