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本多正之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多正之
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年(1630年)[注釈 1]
死没 元禄元年2月28日1688年3月29日[1]
別名 忠左衛門(通称)[1]
戒名 秀金[1]
墓所 牛込の浄泉寺(『寛政譜』時点)[注釈 2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
氏族 本多氏
父母 父:本多正勝 [1]
兄弟 正好、女子(戸田氏豊妻)、女子(野間成大妻)、正之 [1]
正室:船橋相賢の養女[1]
弥三郎、女子(本多正芳妻)、女子(高木清胤妻) ほか
養子:求馬、正芳
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本多 正之(ほんだ まさゆき)は、江戸時代前期の旗本本多正純の孫にあたる。正純に連座した子・正勝の二男として、配所の出羽国横手(現在の秋田県横手市)で生まれる。のちに赦免を受けて3000石相当の大身旗本となった。

生涯

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本多正之は、江戸時代初期に徳川家康の側近として活躍したものの、徳川秀忠の代に失脚した本多正純の孫にあたる。

本多正純の改易と一族の配流

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元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩15万5000石の藩主であった正純は、出羽国山形藩最上家改易のため出張中に改易を命じられ、同国由利(現在の秋田県由利本荘市周辺)に移された。正純は5万5000石を支給すること(本荘城を中心とする「本荘藩」への減転封[2][3])を示されたが固辞したといい[4][5][6]、一般に「配流」と表現されている[5][4]。元和9年(1623年)に大沢(現在の大仙市大沢郷地区[7])に移され、賄料として1000石を与えられた[4][5]。寛永元年(1624年)、久保田藩佐竹義宣預けられた[4][5]

正純の嫡男であった本多正勝は、父の処分に連座し、出羽への配流をともにしている[5]。正勝には正室(戸田氏鉄の娘)との間に生後間もない長男(本多正好)があったが、正好は父らの配流後、外祖父の戸田氏鉄のもとに引き取られている[5]

義宣は、横手城代・須田盛秀に正純・正勝父子の身柄を預けた[8]。以後彼らは横手(現在の横手市)に住し[4][5]、1000石が支給された[5]。横手城の三の丸に相当する高台に本多正純(上野介)父子を幽閉する居館が築かれ[8]、のちに父子の墓が設けられたため、この高台一帯は上野台こうずけだいと呼ばれる[9][10][注釈 3]

生い立ち

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本多正之は、寛永7年(1630年)[注釈 1]に正勝の二男として横手に生まれた[1]。『寛政譜』によれば母は「某氏」とある[1][注釈 4]。本多正勝は、政之の生まれた寛永7年(1630年)に死去した[5]

のちに[注釈 5]「所縁」のある尾張藩付家老の成瀬正虎[注釈 6]のもとに引き取られ、正之は成瀬家の所領である尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)に住した[1]

赦免から大身旗本へ

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寛文4年(1664年)7月24日に赦免を受け[1]、同年10月15日に徳川家綱初めて拝謁[1]、12月27日に蔵米2000俵を給されて寄合に列した[1]

延宝3年(1675年)1月26日、使番となる[1]。同年12月26日、布衣を許される[1]

延宝5年(1677年)2月9日、将軍の命により、法皇御所[注釈 7]女院御所[注釈 8]の造営の奉行を務める[1]。任務を成功させ、法皇・女院から褒美を受けるとともに、江戸帰任後の12月7日には幕府からも時服3領などの褒賞を受けた[1]。12月19日、普請奉行に任じられる[1]

延宝7年(1679年)12月10日、駿府城の定番に任じられ[1]、この際に遠江国山名郡駿河国富士郡内で1000石の知行を加増された[1]。元禄元年(1688年)2月28日、駿府において死去、享年59[1]。牛込の浄泉寺に葬られた[1][注釈 2]

系譜

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寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、養子も含め三男三女が記される[15]。( ) 内は『寛政譜』の記載順。また、養子についても『寛政譜』の記載に準じ「二男」などと数える。

  • 正室:船橋相賢の養女
  • 生母不明の子女
    • 長男(1):本多弥三郎 - 早世
    • 女子(4) - 本多正芳の妻
    • 女子(5) - 高城清胤の妻
    • 女子(6) - 尼となる
  • 養子女
    • 二男(2):本多求馬 - 某氏の子。延宝8年(1680年)に徳川綱吉への御目見を果たしているが、その後の事績は記されない。
    • 三男(3):本多正芳 - 石川正信(政信[16])の三男。婿養子となり家督を継承。

補足

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  • 本多正芳のとき、正之の駿河の知行地は下野国塩谷郡内に移され、2000俵の蔵米知行は安房2郡内2000石の知行地に改められており、3000石の領主となっている。
  • 『寛政譜』編纂時まで、この家は正之=正芳=正庸まさつね―正安=正命まさのり―正峯―正収まさときと続いた(―は実子、=は養子関係)。
    • 上記のうち、3人(正之・正芳・正庸)が布衣以上となった。本多正芳新番頭から槍奉行を務めた。本多正庸使番[注釈 9]目付、新番頭、小普請奉行を務めて諸大夫に上り(従五位下近江守)、その後作事奉行田安家家老を務める。
    • 本多正芳の養嗣子としてはじめ加賀本多家から政尹(本多政敏の三男)が迎えられているが、病気のために実家に帰されている。本多正庸は旗本水谷勝阜の四男であり、正命は勝阜の外曾孫(勝阜の子である勝比の娘を母とする)である。
    • 本多正庸は、祖先の正信・正純らも称した「弥八郎」を通称としている。正庸の実子(早世)の正貞、末期養子として本多家を継いだ正命も「弥八郎」を称した。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 没年と享年から逆算。
  2. ^ a b 浄泉寺は現在の東京都新宿区喜久井町に所在していたが、明治期に寺院の合併・移転を経て、現在東京都中野区上高田にある宗清寺がその系譜を継ぐという[14]。墓所の現状(移葬・合祀などがあったか)については別途参考文献が必要である。
  3. ^ 古くは「上野台町」という町名もあったが、現在は横手市城南町の一部[10]
  4. ^ 法名(院号)を「桂光院」といい、横手の名主の娘であるという[11]
  5. ^ 本多正純は子の正勝よりも長命を保ち、寛永14年(1637年)に横手で没した[4][5]。正之が成瀬家に引き取られた時期は『寛政譜』では不明である。
  6. ^ 『寛政譜』では「所縁」が具体的にどのようなものかは記されていない。ただし少なくとも縁戚関係であり、正虎の父・成瀬正成の後妻が本多正重(正信の弟。すなわち政之の大叔父)の娘である[12][13]。なお、正虎自身は正成の前妻である森川氏俊の娘の所生である[12]
  7. ^ 後水尾法皇
  8. ^ この時点で存命の女院は後水尾天皇の中宮であった東福門院(徳川和子)。
  9. ^ 使番在任中、藩主が若年(上杉勝千代(のち宗憲)の米沢藩国政監督の任務をおこなっている

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.709
  2. ^ 由利郡”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
  3. ^ 本荘町(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 本多正純”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年8月31日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.708
  6. ^ 本荘藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
  7. ^ 大沢郷宿村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
  8. ^ a b 上野台町”. 日本歴史地名大系. 2023年8月31日閲覧。
  9. ^ 本多上野介正純公を学ぶ市民の会”. 横手市. 2023年8月29日閲覧。
  10. ^ a b 上野台町(近世~近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年8月31日閲覧。
  11. ^ 本多弥八郎家の系図”. かな文庫 (2022年6月11日). 2023年8月31日閲覧。[信頼性要検証]
  12. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第九百四十八「成瀬」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.993
  13. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.714
  14. ^ 宗清寺。浄泉寺を合併した松雲寺を合併、白翁大黒天”. 猫の足あと. 2023年8月30日閲覧。
  15. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.709-710
  16. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百二十一「石川」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.738