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本田親済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本田親済
ほんだ ちかなり
生年月日 1864年7月13日
没年月日 (1922-01-14) 1922年1月14日(57歳没)
出身校 ニューポート大学卒業
帝国大学法科大学修了
前職 実業家
所属政党 (無所属派→)
公正会
称号 正四位
勲四等
配偶者 本田フク
本田伊万子
親族 父・本田親雄(貴族院議員)
義兄・長谷信篤(貴族院議員)
義兄・中御門経明(貴族院議員)
義兄・木越安綱(陸軍大臣)

在任期間 1911年7月10日 - 1922年1月14日
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本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日元治元年6月10日[1])- 1922年大正11年)1月14日[1][2])は、明治から大正期の実業家政治家華族貴族院男爵議員。幼名・大吉[1][3]位階正四位[4]勲等は勲四等[4]

経歴

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薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる[1][3][5][6]1898年(明治31年)12月、親済と改名[3][5][6]。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した[1][3][5][6][7]

札幌農学校帝国大学法科大学を修了[2][6]イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業[2]

帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官逓信大臣秘書官代理などを務めた[2]

1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出された[8][9]。当選からしばらくは無所属派に所属した[10]1919年(大正8年)6月に公正会に所属して活動し、死去するまで2期在任した[2][4][11]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成 下巻』508頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83-84頁。
  3. ^ a b c d 『大日本華族大鑑』追加之部10頁。
  4. ^ a b c 火曜会所属・公正会所属貴族院議員録 82コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ a b c 『人事興信録 第6版』ほ30-31頁。
  6. ^ a b c d 『華族畫報 下』644頁。
  7. ^ 『官報』第7722号、明治42年3月26日。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。
  9. ^ 『官報』第8423号、明治44年7月20日。
  10. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 94コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  11. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、30頁。

参考文献

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  • 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 下巻』社団法人霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。


日本の爵位
先代
本田親雄
男爵
本田(親雄)家第2代
1909年 - 1922年
次代
本田不二麿