朱楽菅江
表示
朱楽 菅江(あけら かんこう、元文5年10月24日(1740年12月12日)? - 寛政10年12月12日(1799年1月17日))は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師。大田南畝、唐衣橘洲[1]と共に天明狂歌ブームを築き、狂歌三大家[1]といわれた[2]。本名は山崎景基(後に景貫と改名)、字は道甫、通称は郷助[3]。狂名は朱楽菅江(漢江)、俳号は貫立、号は朱楽館・准南堂・芬陀利華庵、戯作号は朱楽館主人[3]。生年は1738年[1]とも。
生涯
[編集]内山賀邸に和歌を学ぶかたわら、雑俳にも親しんだ。狂歌は安永初め頃から、同門の大田南畝、唐衣橘洲、平秩東作らと始めた[3]。妻の節松嫁々と朱楽連を結成し、狂歌界の巨頭として『故混馬鹿集』(1785年)『江戸爵』(1786年)の編者となる一方、1783年に『万載狂歌集』を編み、1785年に『狂言鶯蛙集』を発刊[1]。1788年、和歌に近い立場で『鸚鵡盃』『八重垣縁結』を撰び、寛政期には和歌への傾斜を深め、1791年『狂歌大体』を著した[3]。
戯作は大田南畝に刺激され、『売花新駅』(1777年)『大抵御覧』(1779年)『雑文穿袋』(1779年)を執筆[3]。その後、川柳の牛込蓬莱連へ入り込み、1780年より『川傍柳』出版に協力し、初編に19句、2編に15句を収めている[3]。
参考文献
[編集]- 浜田義一郎 「朱楽菅江」(『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年、18頁)
- 相賀徹夫『万有百科事典 1 文学』小学館、1976年。ISBN 978-4095250168。