京都市立朱雀中学校
京都市立朱雀中学校 | |
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北緯35度0分24.19秒 東経135度44分13.49秒 / 北緯35.0067194度 東経135.7370806度座標: 北緯35度0分24.19秒 東経135度44分13.49秒 / 北緯35.0067194度 東経135.7370806度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 1947年5月1日[1][2] |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | C126210000179 |
所在地 | 〒604-8863 |
京都市中京区壬生中川町20-1 | |
外部リンク | 公式ホームページ |
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京都市立朱雀中学校(きょうとしりつ すざくちゅうがっこう[注釈 1])は、京都府京都市中京区にある公立中学校。なお、本項ではかつて同校地にあった朱雀第五小学校と、同校が位置する地域における、京都市内の地域自治の単位である元学区(学区)の朱雀第五学区についても解説する。
概要
[編集]朱雀中学校は、京都市中京区壬生中川町に位置し、戦後の学制改革に際して昭和22年(1947年)に新制中学校として、朱雀第五小学校の校地・校舎を転用して開校した。
沿革
[編集]通学区域
[編集]朱雀中学校の通学区域は、朱雀第一小、朱雀第四小、朱雀第六小の通学区域の一部と、朱雀第七小の通学区域全域である[4]。
周辺
[編集]学校周辺については、当該校が含まれる元学区について説明する「#朱雀第五学区」の節を参照。
交通
[編集]公共交通機関の最寄駅・停留所は以下のとおり。
- 鉄道
- 路線バス
関係者
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朱雀第五小学校
[編集]朱雀第五小学校(すざく/すじゃく/しゅじゃく だいごしょうがっこう)は、1930年(昭和5年)に開校し、1941年(昭和16年)4月に国民学校となったのち、1943年(昭和18年)に初等科を廃し、高等科単独の国民学校となった。初等科の児童は、朱雀第一、朱雀第四、朱雀第六、朱雀第七の4校に編入された。 戦後の学制改革により、同校の校地校舎を転用した朱雀中学校の開校に伴い閉校した。
沿革
[編集]- 1930年(昭和5年)8月27日 - 朱雀第五尋常小学校開校[1]。
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により京都市朱雀第五国民学校に改称[1]。
- 1943年(昭和18年)4月 - 初等科を廃し、高等科単独の国民学校となる[5]。同校の児童は朱雀第一、朱雀第四、朱雀第六、朱雀第七の4校に編入。
- 1947年(昭和22年)
朱雀第五学区
[編集]朱雀第五学区(すざくだいごがっく[注釈 2])は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。かつての朱雀第五小学校の通学区域を範囲とする、京都市の地域自治の単位となっている。
朱雀第五学区の名称の朱雀のもととなるのは明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、聚楽廻、西京村、壬生村が合併して成立した朱雀野村である。朱雀野村は大正7年(1918年)に西院村の一部と共に京都市下京区(当時)に編入され、編入された区域は下京第34学区となった。
下京第34学区は、昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、朱雀学区となり、中京区に属した[6]。
学区内には、明治37年(1904年)に朱雀野小(のちに朱雀第一小と改称)が創立し、大正元年(1912年)には朱雀野第二小(のちに朱雀第二小と改称)、大正10年(1921年)には松原小(のちに朱雀第三小と改称)、昭和4年(1929年)に朱雀第四小、昭和5年(1930年)に朱雀第五小、昭和7年(1932年)に朱雀第六小、昭和8年(1933年)に朱雀第七小、昭和12年(1937年)に朱雀第八小が創立された[7][注釈 3]。
昭和16年(1941年)に国民学校令の施行により学区の根拠が失われ[8](京都市の学区そのものは昭和17年(1942年)に廃止[9])、昭和16年6月に国民学校の通学区域を単位とする町内会連合会が発足[8][注釈 4]。朱雀第五国民学校の通学区域を単位として朱雀第五町内会連合会が設置され[10]、戦後のポツダム政令[11]による解体ののち、住民自治の単位である現在の朱雀第五学区となった。
地理
[編集]朱雀第五学区は、北側が朱雀第四学区と朱雀第六学区、東側が朱雀第一学区、南側が朱雀第三学区と朱雀第七学区、西側が右京区の西院第一学区と接する[12]。区域は、概ね北は御池通、東はJR山陰本線、南は四条通、西は右京区界であり、壬生・西ノ京を冠称する町の一部から構成される。面積は0.557 平方キロメートルである[注釈 5]。
人口・世帯数
[編集]京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[13]、朱雀第五学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第10国勢統計区[注釈 6])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は8,896人、4,424世帯である。
朱雀第五学区の通り
[編集]東西の通り
[編集]朱雀第五学区の町名
[編集]交通
[編集]- 鉄道
- 路線バス
主な施設
[編集]- 教育機関
- 京都両洋高等学校(壬生上大竹町)
- 京都市立朱雀中学校(壬生中川町)
- 公的施設
- 京都労働者総合会館 ラボール京都(壬生仙念町)
- 郵便局
- 西院郵便局(壬生仙念町)
- 複合施設
- BiVi二条(西ノ京栂尾町)
- 主な企業
- NISSHA(壬生花井町)
歴史
[編集]- 史跡
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 読みは以下のページに基づく。“京都市立学校・幼稚園のホームページ一覧”. 2024年3月2日閲覧。
- ^ 学区(元学区)の読みは、『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 26, 「朱雀第五学区」にもとづく。
- ^ 第二次世界大戦前の京都市の学区については、学区内に新たに小学校が創立して通学区域が分割されても、学区の区域が分割されることはなかった。(→「京都の元学区」の記事を参照。)
- ^ 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020)など中京区役所の資料で昭和16年に朱雀地域が8つの学区となると記しているのは、このときに8つの小学校(国民学校)に対応して8つの町内会連合会が設置されたことによると考えられる。
- ^ 京都市地域統計要覧ウェブサービスの国勢統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積。
- ^ 令和2年国勢調査時点
- ^ 阪急京都線西院駅は右京区に位置する。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “朱雀中学校 学校沿革史”. 京都市立朱雀中学校. 2024年3月2日閲覧。
- ^ a b 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 228, 「京都市立朱雀中学校」
- ^ a b “京都市立中学校・総合支援学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年3月2日閲覧。
- ^ a b “京都市通学区町名一覧(中京区)”. 京都市教育委員会. 2024年3月2日閲覧。
- ^ 京都市教育委員会 編『閉校記念誌 柳池 輝ける134年のあゆみ』京都市教育委員会、2007年、37頁。
- ^ 「昭和4年3月29日京都府告示第80号」京都市 編『京都市 地名・町名の沿革』1994年、50-51頁。
- ^ a b 『京都市学区大観』 (1937), pp. 76–79, 「中京区朱雀学区」
- ^ a b 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 1 (政治・行政編)』京都府、1971年、248頁。doi:10.11501/9537070 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ 京都市戦時生活局振興課 編「各區町內會聯合會別地域組合、高額貯蓄組合竝ニ國債債劵隣保消化目標額」『国民貯蓄増強のしるべ 昭和18年度』京都市、1943年、14-24頁。doi:10.11501/1274568 。
- ^ 町内会部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する政令(昭和22年政令第15号)
- ^ “令和2(2020)年 国勢調査地図”. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ “三条院釣殿高坏”. 2024年3月7日閲覧。
- ^ 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 74, 「京都市立朱雀第四小学校」
- ^ “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年3月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年 。2024年3月2日閲覧。