杉野繁一
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すぎの しげいち 杉野 繁一 | |
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杉野繁一(左)と妻の杉野芳子(右) | |
生誕 |
1887年2月24日 愛知県海部郡佐屋町 (現・愛知県愛西市) |
死没 | 1973年2月21日(85歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | スタンフォード大学 |
職業 | 建築家・教育者・実業家 |
杉野 繁一(すぎの しげいち、1887年2月24日[1] - 1973年2月21日)は、愛知県海部郡(後の佐屋町、現在の愛西市)出身の建築家・教育者・実業家である。
経歴
[編集]アメリカ時代
[編集]1887年(明治20年)に愛知県海部郡佐屋町(現・愛西市)に生まれた。旧制の愛知第三中学校(現在の愛知県立津島高等学校)を中退し、単身でアメリカ合衆国の渡った。現地のハイスクールを経て、スタンフォード大学で土木工学を専攻し、卒業後はアメリカ合衆国で建築家として活動した。そののちにアメリカ合衆国に留学中の杉野芳子(芳子の旧姓は岩沢)と知り合い、1914年(大正3年)に結婚した[2]。
日本帰国後
[編集]1920年(大正9年)に夫妻で帰国後、繁一は日本統治時代の朝鮮にある平壌(現・北朝鮮)で建築家として活動していた。1926年(大正15年)に芳子がドレスメーカー学院を設立すると、芳子に事業を手伝うように懇願され、杉野学園の初代理事長に就任した。専修学校や各種学校の法的地位を確立させるために奔走するなど、教育者として活動する一方、現在の杉野服飾大学(杉野学園)の校舎、体育館、衣装博物館などを設計する建築家としても活動した。故郷の佐屋町が1965年(昭和40年)に町制施行10周年を迎えると、繁一は個人的に佐屋町に1000万円を寄付した。佐屋町は「杉野」の名を関した図書館の建設を計画し、1966年(昭和41年)には佐屋町立杉野図書館が開館した。墓所は多磨霊園(22-1-79-1)
東京都品川区上大崎4-4にある2人の旧宅は、「杉野記念館」として公開されている。目黒駅を西に出て、ドレメ通りと呼ばれる通りにある。「杉野記念館」では杉野芳子遺作展などを開催している。
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 第19版 上』人事興信所、1957年、す21頁。
- ^ 人間の記録30 杉野芳子 炎のごとく 日本図書センター