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李俊 (映画監督)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李俊
中国語 李俊
漢語拼音 Lǐ Jùn
生誕 (1922-03-02) 1922年3月2日
中華民国の旗 中華民国山西省夏県(現・運城市
死没 (2013-01-07) 2013年1月7日(90歳没)
中華人民共和国の旗 中国北京市
職業 映画監督
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李俊
職業: 映画監督
籍貫地 中華人民共和国の旗 中国 陝西省渭南市富平県
各種表記
繁体字 李俊
簡体字 李俊
拼音 Lǐ Jùn
和名表記: り しゅん
発音転記: リー・ジュン
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李 俊(り しゅん、拼音仮名転写:リー・チュン、1922年3月2日 - 2013年1月7日[1])は、中国山西省夏県(現・運城市)出身の映画監督[1]

経歴

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1922年山西省夏県(現・運城市)に生まれる[1]1937年日中戦争が勃発した後、八路軍に参加[2]。翌年延安に赴き、抗日軍政大学で学ぶ[2]1939年中国共産党に入党し、文芸宣伝活動を行った[2]1951年中国人民解放軍八一電影製片廠中国語版が設立されるとニュース映画を撮影する[3]1958年、劇映画の第一作『回民支隊』を監督[3]1963年にはチベット動乱を題材とした『農奴』を監督する。この映画はプロパガンダ映画であるが、ヌーヴェルヴァーグの影響を受けた映像表現が見られる[4]文化大革命が始まると批判に遭い、1971年に白洋淀に下放されるが、1973年には呼び戻されて『閃閃的紅星』を監督する[5]。この映画は子供を主人公とした映画で、李の代表作とみなされている[1]1976年には、江青の主導で1965年に製作が開始されたものの、その後10年以上未完成のままだった映画『南海長城』の監督を引き継ぎ、完成させている。しかし、公開直後に江青が逮捕されたため、すぐに公開中止となった[6]。その後は大作戦争映画『大決戦』三部作などを監督[3]。『大決戦』で金鶏奨の作品賞と監督賞を受賞した[7]2013年北京の病院で死去[5]

フィルモグラフィー

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  • 回民支隊 (1958年)
  • 友誼 (1959年)
  • 農奴 (1963年)
  • 分水嶺 (1964年)
  • 閃閃的紅星 (1974年)
  • 南海長城 (1976年)
  • 十月的勝利 (1977年)
  • 帰心似箭 (1979年)
  • 許茂和他的女児們 (1981年)
  • 女教官的報告 (1988年)
  • 大決戦(第一部:遼瀋戦役) (1991年)
  • 大決戦(第二部:淮海戦役) (1991年)
  • 大決戦(第三部:平津戦役) (1992年)
  • 禿探与俏妞 (1994年)

脚注

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  1. ^ a b c d 《閃閃的紅星》導演李俊病逝 三部代表作載入史册 人民网 2018年7月9日閲覧。
  2. ^ a b c 李俊 中央戯劇学院 2018年7月9日閲覧。
  3. ^ a b c 戦士、詩人、導演-憶李俊導演和他的電影 中国文芸网 2018年7月9日閲覧。
  4. ^ 応雄「流産した、または歪んだヌーヴェル・ヴァーグ : 1960年代初期中国映画作品『小兵張〔カツ〕』、『農奴』を中心に」『北海道大学文学研究科紀要』第114巻、北海道大学文学研究科、2004年、41-62頁、ISSN 13460277NAID 110006692562 
  5. ^ a b 【逝者】李俊 鳳凰网 2018年7月9日閲覧。
  6. ^ 辻田智子「映画『南海長城』について : 中国当代文芸政策に関する一考察」『京都産業大学論集. 人文科学系列』第45巻、京都産業大学、2012年3月、215-231頁、ISSN 0287-9727NAID 120005382020 
  7. ^ 第12届中国電影金鶏奨 時光网 2018年7月9日閲覧。

外部リンク

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