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村上忠勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
村上忠勝 / 村上義明
時代 江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 元和9年9月26日1623年11月18日
別名 義明、通称:周防守
墓所 法昌寺・村上周防守供養塔(兵庫県丹波篠山市黒岡)
官位 従五位下周防守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠
越後村上藩
氏族 戸田氏村上氏
父母 父:戸田氏繁(勝隆)または戸田内記(重典)、母:村上頼勝の妹または娘
養父:村上頼勝
正室:花井吉成の娘
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村上 忠勝(むらかみ ただかつ)は、江戸時代前期の大名越後国村上藩2代藩主村上城主。養父と同じく義明(よしあきら)とも名乗り[1]受領名も同じく周防守を称した[2]

経歴

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村上頼勝の妹婿戸田氏繁(勝隆)の子だが、頼勝の養子となった[2]とも、(勝隆の弟・勝成の子)戸田内記の子で[3]、頼勝の娘が母ともいう。

何れにしても、母方の親戚である頼勝の養嗣子(または猶子[2])となった。

慶長17年(1612年)1月、将軍徳川秀忠あての東北諸大名の誓書に村上周防守忠勝とある[2]高田城松平忠輝の与力として村上城主を継ぎ、元和元年(1615年)、大坂夏の陣では忠輝に従って出陣した[2]

元和2年(1616年)、家督を継ぎ殖産振興や領内の金山の産出量増産を行った。

忠輝の失脚後、元和4年(1618年)、家臣の魚住角兵衛が暗殺されると、その黒幕が家老・高野権兵衛(河野氏勝)ではとの風評が立ち、論争となる。幕府に報告して3月6日に裁決されたが騒動が収まらず、4月9日に家中の論争が多いとの理由で改易された。大坂の陣に前後して、幕府寄りだった高野派と豊臣氏に味方すべきと主張する家老・冨田次郎左衛門派の抗争があったとする見解もある[4]。豊臣系の大名であることや、領内に金山をもっていること、松平忠輝の与力大名であり正室に花井吉成の娘を迎えており忠輝に近いことなども改易理由として考えられる(忠輝は忠勝改易の2年前に流罪・改易となっている)。

捨扶持300石を与えられて丹波国篠山に流罪とされ、同藩主松平康重に預けられた。林八郎右衛門ら家臣二十数名が同地に従った。元和9年(1623年)に死去した。25歳という[5]

忠勝は篠山城近くの黒岡村の廟所に埋葬され、忠勝の木像と家臣が作った位牌は法昌寺に安置された。法昌寺はそれ以前からあったものの開基を忠勝としており、忠勝の流罪先が篠山となった理由は越後にゆかりのある住職と縁があったとされているという。忠勝は村人に読み書きなどを教えていたことから、今では「学問の神」として信仰されている[6]

脚注

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  1. ^ 村上忠勝」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%BF%A0%E5%8B%9Dコトバンクより2020年7月10日閲覧 
  2. ^ a b c d e 村上義明」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E6%98%8Eコトバンクより2020年7月10日閲覧 
  3. ^ 山鹿素行「国立国会図書館デジタルコレクション 第二十四続集」『武家事紀. 中巻』山鹿素行先生全集刊行会〈山鹿素行先生全集〉、1915年、242頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946585/128 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 大場喜代司、別冊歴史読本『御家断絶 改易大名の末路』
  5. ^ 村上市 編『村上市史 通史編2』村上市、1999年2月、32-35頁。 NCID BN03441868 
  6. ^ 丹波市商工会にじいろタブレット 越後・村上藩主の廟所がなぜ丹波に 真田信繁と同時代の人物 2018年9月15日