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内藤信美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤信美
『武家華族名誉伝 下』
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 安政4年7月12日1857年8月31日
死没 大正14年(1925年1月20日
改名 小三郎、岡部長美(初名)、信美
墓所 東京都渋谷区広尾東北寺
官位 従五位下豊前守正三位
主君 明治天皇
越後村上藩主(藩知事)
氏族 岡部氏内藤家 (信成系)
父母 父:岡部長寛、母:不詳
養父:内藤信思
兄弟 信美岡部長興朝比奈長融、簾子、鎮姫、岡部長道
松平忠精の娘・珓子
璦子
養子:信任
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内藤 信美(ないとう のぶとみ)は、江戸時代後期の越後国村上藩の第9代(最後)の藩主。官位従五位下豊前守。のち正三位

略歴

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和泉国岸和田藩主・岡部長寛の長男として誕生。幼名は小三郎。初名は岡部 長美(おかべ ながとみ)。

慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主・内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居三十郎が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。

明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、知藩事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下・豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して長女と結婚した婿養子の信任に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったため、信美の子孫は岡部姓に戻ったという。

大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾東北寺

系譜

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父母

正室、継室

  • 松平珓子 ー 松平忠精の娘(正室)
  • 徳 ー 伊東宗祐の娘(継室)

子女

  • 内藤璦子(長女) ー 内藤信任夫人[1]、生母は珓子(正室)

養子

脚注

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  1. ^ 酒井忠篤の養女


当主
先代
内藤信民
村上藩内藤家
1869年 - 1879年
次代
内藤信任