内藤信興
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保8年3月21日(1723年4月25日)[1] |
死没 | 安永9年5月5日(1780年6月7日) |
改名 | 信興、昌山(号) |
別名 | 孫三郎 |
戒名 | 瑞龍院惇誉興仁道温 |
墓所 | 新潟県村上市の天徳寺 |
官位 | 従五位下・紀伊守、大膳亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 越後村上藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 内藤信輝 |
兄弟 |
ヒサ、トミ、信積、モト、信興、 加藤明経正室ら |
妻 | 奥平昌成娘 |
子 | 信旭、カナ、貞、ヒデ、信凭、頼尚、艶、剛松、トシ、マサ |
内藤 信興(ないとう のぶおき)は、江戸時代中期の大名。越後国村上藩3代藩主。官位は従五位下・紀伊守。
経歴
[編集]享保8年(1723年)、2代藩主・内藤信輝の次男として江戸にて誕生した。父・信輝の死去により同10年(1725年)10月25日、6歳で遺領を継いだ。享保21年(1736年)1月28日、8代将軍・徳川吉宗に御目見し、同年12月16日に従五位下・紀伊守となる。同2年6月19日、始めて村上に入部した。
宝暦11年(1761年)5月25日、子の信旭に家督を譲って隠居し、のち明和元年閏12月28日(1765年2月17日)に大膳亮と改めた。また同8年8月3日、剃髪して「昌山」と号したという(以上「寛政譜」新訂13巻203頁および『新編 藩翰譜』2巻所載系図、128頁)。
安永9年(1780年)5月5日、江戸で死去した。享年61。葬地は小石川の無量院(廃寺)。現在、墓所は新潟県村上市の天徳寺に移されている。
『村上郷土史』107頁には「表入用之儀追々相滞 甚差支候」「公務にも可相障 安心無之候」と、逼迫する江戸での財政状況を伝える書状が掲載されている(年次不明。同書では元文5年と推定)。
系譜
[編集]子女は「寛政譜」記載の子女は次の4男6女である。「越後村上 内藤家譜」からの記述を付加し、また『村上郷土史』所載系図の記述を括弧書きにした。
父母
- 内藤信輝(父)
正室
- 奥平昌成の娘
子女
特記事項
[編集]- 生没年および享年は「寛政譜」および「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻104、105頁が続編部分である)の記述に拠った。いずれも安永9年5月5日に61歳で卒とし、従って享保5年生まれとなる。「寛政譜」は生年を明記している。
- 『村上郷土史』では享保8年3月21日生、安永9年5月5日卒、享年58(80頁)もしくは享保6年生、安永9年に60歳で卒したとする(103および116頁)。
- 法名・惇誉興仁道温は「寛政譜」の表記に拠るもの。『村上郷土史』は淳養誉興仁道温と記している(80頁)。
- 『村上郷土史』は生母を「側室の武笠氏」とするが、他の史料に所見がない。
脚注
[編集]- ^ 『内藤信興』 - コトバンク
- ^ 早世(延享3年(1746年)2月生まれ。母は側室。同月卒)
- ^ 「貞」改め「サダ」。寛延3年(1750年)3月生まれ。
- ^ 「ヒデ」改め「重」。宝暦元年(1751年)3月生まれ。
- ^ 早世(宝暦9年(1759年)4月卒)
- ^ 宝暦6年(1756年)2月村上に生まれ。母は側室。宝暦7年7月卒)
- ^ 早世(宝暦12年(1762年)5月生まれ。母は側室。同年7月卒)
- ^ 早世(「マサ」改「ヨシ」)
出典
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
- 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年
- 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベース から検索・閲覧可能。
- 『村上郷土史』村上本町教育会、1931年
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