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東禅寺 (千葉県多古町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東禅寺
所在地 千葉県香取郡多古町寺作
位置 北緯35度45分33秒 東経140度28分29秒 / 北緯35.75917度 東経140.47472度 / 35.75917; 140.47472
山号 土橋山
院号 阿彌陀院
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗室生寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・天平3年(731年
開山 伝・鑑真
正式名 土橋山阿弥陀院東禅寺
文化財 多古町指定史跡「千葉胤直の墓」
法人番号 4040005012066 ウィキデータを編集
東禅寺 (千葉県多古町)の位置(千葉県内)
東禅寺 (千葉県多古町)
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東禅寺(とうぜんじ)は、千葉県香取郡多古町寺作にある寺院。山号院号土橋山阿弥陀院、本尊は阿弥陀如来。現在は、小堂宇の建つ跡地と墓地などを残して移転し、真言宗室生寺派に属する。

概要

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1900年明治33年)刊の『香取郡誌』には、「土橋山阿弥陀院と称し、往時七百五十坪あり。寺伝にいう、天平三年唐鑑真の開基するところなりと。」とされ、千葉氏の拠点所領であった千田荘の中心に位置し、往時は下総国の文化最先端の寺院であり、鎌倉極楽寺や金沢称名寺とならび奈良西大寺叡尊によってもたらされた南都教学の東国における拠点であった。だが元弘3年(1333年鎌倉幕府とともに金沢北条氏が滅び、折りしも勃発した南北朝の戦いに際し北朝方に付いた千葉胤貞宮方に付いた貞胤の家督を巡る騒乱などがあり、こうした戦乱により外護者を失った当寺は衰退を余儀なくされた[1]

その後、康正元年(1455年)には享徳の乱馬加康胤に攻められた千葉胤直が、当寺の本堂とされる土橋の如来堂で自害し、千葉氏宗家は滅亡した。墓地には、胤直とその一族を供養する7基の五輪塔が残されており[2]、このうち胤直の墓は、1976年(昭和51年)10月26日付で多古町指定史跡に指定されている[3]

近世に入り貞享年間(1684年1687年)火災によって朱印状を失い寺領を没収されたが村民によって護持された。天明寛政年間(1781年 – 1800年)の「寺門本末帳」によれば広済寺[4]の門徒寺院として「香取郡土橋村東善寺」と見える。

明治維新後衰微し、現在は千葉胤直などの五輪塔群のほかは、小堂宇と宝暦6年(1756年)建立の「土橋東禅寺」と刻まれる石標1基のみを残し移転したが、かつてあった寺の梵鐘銘に「天平年中鑑真開山」とあり天平年中(729年 - 767年)に鑑真開山として創建されたと知れ、また金沢文庫文書により、本如房湛睿律師が当寺の住持であったことがわかる[5]

脚注

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  1. ^ 千葉胤貞は日蓮宗に帰依し、領地の多くが胤貞流千葉氏によって法華経寺に寄進された。
  2. ^ 「千葉胤直・胤宣・けん族の墓」多古町公式HP
  3. ^ 多古町教育委員会 2006 p.109
  4. ^ 千葉氏一族の椎名氏開基と伝わる。
  5. ^ 当寺と関係の深かった称名寺も金沢北条氏という外護者を失い衰退したが、称名寺はその後江戸時代に復興され金沢文庫に当寺に関する史料が残る。

参考文献

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外部リンク

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