東部防衛司令部
東部防衛司令部(とうぶぼうえいしれいぶ)は、1935年から1940年まで、東北・関東・中部地方の一部の防空のために東京に設けられた日本陸軍の組織である。1937年までは防衛計画を策定するだけで、1937年からは防空の指揮と、首都周辺の警備を任務とした。1940年に東部軍司令部に改組して廃止された。
東部防衛司令部の設置
[編集]防衛司令部は、日本ではじめて防空のために設けられた司令部組織である。当初は防空に関する計画を行うとされ、司令官・参謀長以下ほとんどの人員は従来からあった東京警備司令部との兼任であった。管轄の範囲は東京警備司令部をはるかに超え、北海道を除く東日本に広く及んでいた。
司令部の所在地も東京警備司令部と同じである。しばらく麹町区九段1丁目の軍人会館で事務をとっていたが、1936年7月22日に麹町区隼町1丁目13番地の旧庁舎に移転した[1]。10月29日に、麹町区代官町1番地に移転した[2]。旧築城部本部跡である[3]。
1937年の権限拡張
[編集]東部防衛司令官の権限は狭かったが、兼任の東京警備司令官は東京衛戍司令官[4]であり、平時の警備については一定の指揮権を持っていた。1937年の東京警備司令部廃止にともない、昭和12年11月30日制定(12月1日公布・施行)の勅令第692号による衛戍令改定によって、その権限は東部防衛司令部に継承された[5]。さらに、東京を中心とする数県に及ぶ第1師管については、警備の権限を持った。
官民合同の防空
[編集]東京警備司令部は、1933年(昭和8年)から関東防空演習という官民挙げての演習を実施していた。防空演習には陸海軍諸部隊も参加したが、民間からは東京市内の地区ごとに結成され、消火や救援活動にあたる防護団が参加した。防護団は市当局の下に置かれた民間団体だが、防空演習を通じて司令部が指導に関与した。東部防衛司令部は、1937年に『防護団員必携草案』という本を配布した[6]。東京警備司令部廃止後に東部防衛司令官が関東防空演習の統監となった[7]。1939年(昭和14年)に防護団が消防組と合同して警防団に発展解消してからもこれに関与し、同年4月に警防団教育訓練について「警防精神」や「防空必勝の信念」を求める「警防団教育の要望」を地方長官に送付した[8]。
それより前、防空監視隊の設置にあたっては、1936年(昭和11年)に東部防空統制管区での服務規定を作成した[9]。
1939年(昭和14年)には、詳細な「国民防空の防空計画設定の要領」を作成して配布した。防空法にもとづいて府県と市町村が作成する防空計画に、軍の考えを反映させるためである[10]。
思想情勢の報告
[編集]東部防衛司令部は、管内の政治情勢を含め、外国人・台湾人・朝鮮人の団体、左翼・右翼団体と労働団体、政財界、言論界などの動向を噂まじりでまとめ、陸軍大臣に報告していた。
軍司令部に転換して廃止
[編集]1940年7月10日制定(13日公布)の昭和15年軍令陸第12号で軍司令部令が制定され、防衛司令部令は廃止された[15]。これにともない東部防衛司令部も廃止され、代わりに東部軍司令部が置かれた。部隊なき司令部であった防衛司令部と異なり、軍司令部は管内の師団を隷下におさめた。警備に関する権限も第1師管に限らず広く及ぶようになった。
定員と人事
[編集]発足時の定員
[編集]1935年「昭和10年軍備改変要領細則」付表第14による[16]
- 司令官 大将または中将1名(兼任)
- 参謀長 大佐1名(兼任)
- 参謀・司令部付 中佐または少佐1名(兼任)、少佐1名(兼任)、少佐または大尉1名(専任)、大尉2名(兼任)
- 下士官2名。うち1名は判任文官または曹長または軍曹、1名は砲兵または工兵の工長
歴代司令官と参謀長
[編集]東部防衛司令官
[編集]- (兼) 西義一 大将:1935年(昭和10年)8月1日[17] - 1935年(昭和10年)12月2日(東京警備司令官の兼職[17])
- 香椎浩平 中将:1935年(昭和10年)12月2日 - 1936年(昭和11年)4月2日(東京警備司令官の兼職)
- 岩越恒一 中将:1936年(昭和11年)4月2日[18] - 1937年(昭和12年)8月2日(東京警備司令官の兼職)
- 中村孝太郎 中将:1937年(昭和12年)8月2日 - 1937年(昭和12年)11月30日(東京警備司令官の兼職)
- 中村孝太郎 中将:1937年(昭和12年)11月30日 - 1938年(昭和13年)6月23日
- 川岸文三郎 中将:1938年(昭和13年)6月23日 - 1939年(昭和14年)12月1日
- 稲葉四郎 中将:1939年(昭和14年)12月1日 - 1940年(昭和15年)8月1日(東部軍に改称)
東部防衛参謀長
[編集]- (兼) 安井藤治 少将:1935年(昭和10年)8月1日[19] - 1937年(昭和12年)8月2日(東京警備参謀長の兼職)
- 吉本貞一 少将:1937年(昭和12年)8月2日 - 1937年(昭和12年)11月30日(東京警備参謀長の兼職)
- 吉本貞一 少将:1937年(昭和12年)11月30日 - 1938年(昭和13年)6月20日
- 中井良太郎 少将:1938年(昭和13年)7月15日- 1939年(昭和14年)3月9日
- 西村琢磨 少将:1939年(昭和14年)3月9日 - 1940年(昭和15年)8月1日(東部軍に改称)
各年の職員構成
[編集]以下では『職員録』によりある時点での司令部の構成を示す。下士官・軍属が載せられているときと略されているときがある。官職名の後につけた「*」は、東京警備司令部の同一官職との兼任を示す。
1936年7月1日
[編集]昭和11年7月1日現在の『職員録』による[20]。
- 司令官* 岩越恒一 中将 1935年8月1日から
1937年1月1日
[編集]昭和12年1月1日現在の『職員録』による[24]。
- 司令官* 岩越恒一 中将
1937年7月1日
[編集]昭和12年7月1日現在の『職員録』による[25]。
- 司令官* 岩越恒一 中将
1938年7月1日
[編集]昭和13年7月1日現在の『職員録』による[26]。
- 司令官 川岸文三郎 中将
1939年1月20日
[編集]昭和14年1月20日現在の『職員録』による[27]。
- 司令官 川岸文三郎 中将
1939年7月1日
[編集]昭和14年7月1日現在の『職員録』による[28]。
- 司令官 川岸文三郎 中将
- 参謀長 西村琢磨 少将
- 参謀 宮下健一郎 歩兵大佐
- 参謀 田中良三郎 歩兵中佐
- 参謀 吉村芳次 騎兵少佐
- 参謀 細川直知 騎兵大尉
- 副官 西勝男 歩兵中佐
- 副官 高延隆雄 歩兵大尉
- 部員 小川市蔵 工兵少佐
- 部員 牧清彦 工兵大尉
- 部員 山田寿一 憲兵大尉
- 部員 沖源三郎 司法事務官
- 司令部付 高橋常吉 少将
- 司令部付 藤懸末松 少将
- 司令部付 山県諒 砲兵少佐
- 司令部付 滝上浦治郎 主計中尉
- 司令部付 藤堂常太郞 歩兵中尉
- 司令部付 佐々木孝 主計曹長
- 司令部付 西沢武夫 電工曹長
- 司令部付 宮岡俊之 歩兵曹長
- 司令部付 飯島喜雄 砲兵曹長
- 司令部付 千葉清弥 歩兵曹長
- 司令部付 本島未□(判読不能) 歩兵軍曹
- 属 安藤虎雄
- 属 佐藤政吉
- 属 依田善一
- 参謀長 西村琢磨 少将
1940年2月1日
[編集]昭和15年2月1日現在の『職員録』による[29]。
- 司令官 稲葉四郎 中将
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2866号、1936年(昭和11年)7月22日「東京警備司令部東部防衛司令部移転」。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- ^ 『官報』第2952号、1938年(昭和11年)11月2日「東京警備司令部東部防衛司令部移転」。
- ^ 『永存書類』乙集・第2類・第6冊、昭和14年、「東部防衛司令部建物寄附受理に関する件」、アジア歴史資料センター、Ref. C01002270600。
- ^ 衛戍司令官とは、軍隊の衛戍地(駐屯地)において警備の指揮権を持つ司令官。指揮系統が異なる部隊が同じ衛戍地にいる場合があるため、衛戍司令官を定めておいた。
- ^ 『官報』第3275号(昭和12年12月1日)。
- ^ 勝田茂『防護団員必携 : 案』、1935年、国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。東部防衛司令部監修『改訂防護団員必携草案』、軍人会館出版部、1937年、アジア歴史資料センター、Ref. C15120165900。
- ^ 「昭和12年度関東防空演習及防空訓練規約」。陸軍省大日記『永存書類』(昭和12年乙第3類第2冊)、「昭和12年度関東防空演習に関する件」」に収録。アジア歴史資料センター、Ref. C01002237800。リンク先の10コマめ。
- ^ 『警保局長決裁書類』(昭和14年)、「警防団教育訓練要望の件」。アジア歴史資料センター、Ref. M00000000000016732。
- ^ 『防空法関係書類綴』第1巻、「昭和11年度東部防空統制管区統制計画書別冊/第3.東部防空統制管区防空監視隊服務規定」、アジア歴史資料センター、Ref. C13070864300。
- ^ 『密大日記』第12冊(昭和14年)「国民防空の防空計画設定要領送付の件」。
- ^ 「警備情勢に関する件」、アジア歴史資料センター、Ref. C04120251500。
- ^ 『密大日記』(第4冊、昭和13年)「昭和13年度前半期思想情勢の件」(内容なし)、アジア歴史資料センター、Ref. C01004438700。
- ^ 『密大日記』(第4冊、昭和14年)「昭和13年後半期思想情勢の件」、アジア歴史資料センター、Ref. C01004596200
- ^ 『密大日記』(第4冊、昭和4年)「昭和14年前半期思想情勢の件」、アジア歴史資料センター、Ref. C01004598300。
- ^ 『官報』第4055号(昭和15年7月13日)。
- ^ 司令官・参謀長等の職名は、『官報』第2519号(昭和10年5月29日)の防衛司令部令。人数は『密大日記』昭和10年7冊の内第1号、「昭和10年軍備改編要領同細則の件」、アジア歴史資料センター、Ref. C01004045000。リンク先の78コマめ。同表に見える「ケ」は兼任者を表す。
- ^ a b 『官報』第2575号(昭和10年8月2日)の任官記事、左ページ最下段の右端。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和11年9月1日調)、国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調』、国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 『職員録』(昭和11年7月1日現在)145頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調」、国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調」、国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 「陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調」、国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 『職員録』(昭和12年1月1日現在)67頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 『職員録』(昭和12年7月1日現在)111頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 『職員録』(昭和13年7月1日現在)119頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 『職員録』(昭和14年1月20日現在)47頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 『職員録』(昭和14年7月1日現在)127頁、「東部防衛司令部」。
- ^ 『職員録』(昭和15年2月1日現在)52頁、「東部防衛司令部」。
参考文献
[編集]- 内閣印刷局『官報』。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- 内閣印刷局『職員録』。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- 偕行社『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』、各年版。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- 勝田茂『防護団員必携 : 案』。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- 東部防衛司令部監修『改訂防護団員必携草案』、軍人会館出版部、1937年。アジア歴史資料センターを閲覧。
- 内務省『警保局長決裁書類』。アジア歴史資料センターを閲覧。
- 陸軍省『密大日記』。アジア歴史資料センターを閲覧。
- 陸軍省『永存書類』。アジア歴史資料センターを閲覧。
- 陸軍省『支受大日記』。アジア歴史資料センターを閲覧。