松平信久 (篠山藩嫡子)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永6年(1629年) |
死没 | 慶安5年4月8日(1652年5月15日) |
別名 | 千熊[1]、勘四郎[1] |
戒名 | 玄融院清雲浄安[1] |
墓所 | 高野山浄真院[1] |
官位 | 従五位下・伯耆守 |
藩 | 丹波篠山藩世嗣 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父:松平忠国、母:戸田氏鉄の娘 |
兄弟 | 信久、信之、信重、忠栄、内藤頼長正室、松浦鎮信正室、翠松院、酒井忠興室、本多忠将正室、善法寺要清室、栄昌院 |
妻 | 青山幸成の娘 |
松平 信久(まつだいら のぶひさ)は、江戸時代前期の丹波国篠山藩の世嗣。
生涯
[編集]寛永6年(1629年)、篠山藩主松平忠国の長男として誕生した[1]。母は戸田氏鉄の娘[1]。
寛永12年(1635年)12月1日、忠邦の嗣子として7歳で徳川家光に拝謁[1]。寛永20年(1643年)12月29日、従五位下・伯耆守に叙任される[1]。
慶安5年(1652年)4月8日、父に先立って死去した[1]。享年24[1]。曾祖父にあたる松平信一と同じく、高野山の浄真院に葬られた[1]。同母弟の信之が代わって嫡子となり、次代藩主となった[1]。
系譜
[編集]正室は青山幸成の娘[1][2]。信久の死後、山口重直に再嫁した[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第七
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/29
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会)