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松平忠容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠容
時代 江戸時代中期
生誕 享保7年(1722年
死没 安永10年1月23日1781年2月15日
改名 忠容→笠翁(隠居号)[1]
別名 善十郎[2]
戒名 笠翁[1]
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺[1]谷中霊園
官位 従五位下民部少輔[2]
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川吉宗家治
氏族 藤井松平家
父母 父:松平忠周、母:石井氏[1]
兄弟 忠愛、鉄次郎、忠容藤井忠陣
藤井忠弘広橋兼顕室、戸川安聡正室、戸川安聡継室、八幡光清室、木村盛快
小川氏[1]
忠常[1]
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松平 忠容(まつだいら ただやす)は、江戸時代中期の大身旗本旗本寄合席)。信濃上田藩主・松平忠周の五男で、兄の忠愛から更級郡川中島(塩崎知行所)5000石を分知された。

生涯

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享保7年(1722年)、信濃上田藩主・松平忠周の五男として誕生した[1]。享保13年(1728年)年5月1日、父の忠周が死去。

享保13年(1728年)6月15日、上田藩主を継いだ兄の忠愛は、父の遺領から5000石を弟の忠容(当時7歳)に分知した[3]。このとき分知されたのが更級郡にあった飛地「川中島領」1万石[注釈 1]のうちの5000石で、塩崎村、今井村、上氷鉋村、および中氷鉋村の一部である[3]。知行地は「塩崎知行所」と呼ばれる[3][4]。現地任用の代官・割番などが政務にあたった[4]

元文2年(1737年)8月25日に徳川家治小姓となり[1]、8月28日に従五位下・民部少輔に叙任[1]

宝暦6年(1756年)2月21日、昵懇の列に連なり、小姓組番頭格となった[1][5]。5月21日より西丸側役となり、諸事執啓を務める[1]。9月26日に執啓を[1]、10月18日に御側を[1]それぞれ免じられ、10月29日に致仕した[1]。致仕号は笠翁[1]。跡は忠常が継いだ。

安永10年(1781年)1月23日、60歳で死去[1]。江戸・西久保(現在の東京都港区虎ノ門)の天徳寺に葬られ、以後代々の葬地となった[1]。ただしその後改葬があったらしく、忠容の墓誌を刻んだ「松平祖先之墓」が谷中霊園に存在している[6]

塩崎知行所

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陣屋の置かれた塩崎村(現在の長野市篠ノ井塩崎)は[3][4]、『元禄郷帳』で村高2800石余という大きな村であったが[7]、他方、塩崎村は千曲川の洪水常襲地帯であり、享保16年(1731年)の「亥年の大水害」、寛保2年(1742年)の「戌の満水」などが大きな水害として記録されている[7]

寛保3年(1743年)、忠容は蔵米知行に改められ、「塩崎知行所」は一旦は幕府領となっているが[4]、宝暦6年(1756年)に再度地方知行となり、塩崎知行所が復活する[4]

以後、幕末まで松平家が塩崎知行所を治め、7代当主松平忠厚が明治2年3月8日に版籍奉還を行って解消した[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ この川中島領1万石は、豊臣政権の上杉景勝支配下で海津城須田満親の知行地であった領域である[3]。江戸時代初期には上田藩仙石家領となり、上田藩主が仙石家から藤井松平家に交替したあとも引き続いて上田藩領であった[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.48
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.47
  3. ^ a b c d e f 『信濃国更級郡川中島中氷鉋 青木家文書(1)』2012年、23頁。 
  4. ^ a b c d e f 塩崎知行所”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。
  5. ^ 小林夕里子 2012, p. 10.
  6. ^ 松平忠容(まつだいらただやす)”. 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー. 2022年5月28日閲覧。
  7. ^ a b 塩崎村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第八
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/34
  • 小林夕里子「近世中後期江戸幕府側衆の再検討 ―「江戸幕府日記」における就任記事の分析を中心に―」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 : 別冊』第20巻、第1号、2012年。 

外部リンク

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