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松平忠常

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠常
時代 江戸時代中期
生誕 延享4年(1747年
死没 寛政10年7月25日1798年9月5日
改名 忠常→常翁(致仕号)[1]
別名 英之助、與五郎[1]
戒名 常翁[1]
墓所 [注釈 1]
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家重家治
氏族 藤井松平家
父母 父:松平忠容、母:小川氏[1]
大島義里[1]
松平忠明
養子:松平忠明[1]
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松平 忠常(まつだいら ただつね)は、江戸時代中期の大身旗本旗本寄合席)。信濃塩崎陣屋5000石松平家の第2代当主。

生涯

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塩崎陣屋松平家初代・松平忠容の子として誕生。塩崎陣屋(現在の長野市篠ノ井塩崎)の松平家は信濃国上田藩主家の分家にあたる。

宝暦6年10月29日1756年11月21日)、10歳の時に家督を継ぐ[1]。宝暦12年(1762年)には知行地で「塩崎騒動」[3]あるいは「桝騒動」[4]と呼ばれる百姓一揆が発生している(上田藩宝暦騒動に連動したものとされる[4])。

明和4年12月9日1768年1月28日徳川家治御目見[1]

男子はなく女子一人であったため、天明4年(1784年)に豊後岡藩主中川家から忠明を婿養子として迎えている。

天明5年8月11日1785年9月14日)、忠明に家督を譲って致仕し[1]、常翁を称した[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政譜』によれば、西久保天徳寺(現在の東京都港区虎ノ門)が父・忠容以来の塩崎松平家の葬地とされているが[1]、忠容の墓誌を刻んだ「松平祖先之墓」は谷中霊園に移されている[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.48
  2. ^ 松平忠容(まつだいらただやす)”. 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー. 2022年5月28日閲覧。
  3. ^ 塩崎知行所”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。
  4. ^ a b 塩崎村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。

参考文献

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