松平忠常
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享4年(1747年) |
死没 | 寛政10年7月25日(1798年9月5日) |
改名 | 忠常→常翁(致仕号)[1] |
別名 | 英之助、與五郎[1] |
戒名 | 常翁[1] |
墓所 | [注釈 1] |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家重→家治 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父:松平忠容、母:小川氏[1] |
妻 | 大島義里娘[1] |
子 |
松平忠明室 養子:松平忠明[1] |
松平 忠常(まつだいら ただつね)は、江戸時代中期の大身旗本(旗本寄合席)。信濃塩崎陣屋5000石松平家の第2代当主。
生涯
[編集]塩崎陣屋松平家初代・松平忠容の子として誕生。塩崎陣屋(現在の長野市篠ノ井塩崎)の松平家は信濃国上田藩主家の分家にあたる。
宝暦6年10月29日(1756年11月21日)、10歳の時に家督を継ぐ[1]。宝暦12年(1762年)には知行地で「塩崎騒動」[3]あるいは「桝騒動」[4]と呼ばれる百姓一揆が発生している(上田藩宝暦騒動に連動したものとされる[4])。
明和4年12月9日(1768年1月28日)徳川家治に御目見[1]。
男子はなく女子一人であったため、天明4年(1784年)に豊後岡藩主中川家から忠明を婿養子として迎えている。
天明5年8月11日(1785年9月14日)、忠明に家督を譲って致仕し[1]、常翁を称した[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第八
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/34