コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

板倉勝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
板倉勝政
板倉勝政
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年3月20日1759年4月17日
死没 文政4年3月2日1821年4月4日
戒名 義正院殿天忠源然大居士
官位 従五位下左近将監周防守、主膳正
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行
主君 徳川家治家斉
備中松山藩
氏族 板倉氏
父母 板倉勝澄、植原氏
板倉勝従
兄弟 勝武戸田光邦勝従勝行勝政
勝峯伊奈忠尊勝房前田利尚正室、
堀直泰正室、巨勢利喬正室、
菅沼定前正室、本多忠盈正室ら
戸田氏英
進藤氏、谷村氏、飯田氏
勝晙勝尚勝喬岩城隆喜正室、
柳沢里世正室ら
テンプレートを表示

板倉 勝政(いたくら かつまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名備中国松山藩4代藩主。官位従五位下周防守、主膳正。板倉家宗家10代。

経歴

[編集]

初代藩主・板倉勝澄の七男として誕生した。

安永7年(1778年)2月22日、兄で先代藩主の勝従末期養子として家督を継いだ。同年4月28日、10代将軍徳川家治御目見する。安永8年12月16日、従五位下左近将監に叙任する。天明4年(1784年)5月15日、奏者番に就任する。天明8年6月26日、寺社奉行を兼任する。藩政においては藩校有終館を創設した。寛政10年(1798年)5月1日、寺社奉行を辞任する。

享和元年(1801年)3月8日、病を理由に隠居し、四男の勝晙が家督を継いだ。文政4年(1821年)3月2日、63歳で死去した。法号は義正院殿天忠源然大居士。

系譜

[編集]