柴田民男
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都墨田区 |
生年月日 | 1949年4月5日(75歳) |
身長 体重 |
180 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト外 |
初出場 | 1977年8月2日 |
最終出場 | 1977年8月21日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]日大三高では、同期の古賀正明とともに投手陣の中心として活躍。1965年秋季東京大会では1回戦で先発を任されるが、堀越高に大敗。1966年の夏の甲子園東京都予選の決勝に進出するが修徳高に敗退、自らの登板はなかった。1966年秋季東京大会では日体荏原高との準々決勝で先発するが、延長15回の末に敗退。1967年夏は都予選準決勝でまたも堀越高に7回コールド負け、甲子園出場はならなかった。古賀以外の高校同期に畑野実三塁手がいる。
高校卒業後は、畑野とともに日本大学へ進学。小山良春(三協精機)、鈴木博(三菱自動車川崎)に次ぐ投手として活躍した。東都大学野球リーグでは1971年秋季リーグに優勝。同年の明治神宮野球大会でも亜大を降し初優勝。
大学卒業後は、社会人野球の富士重工業へ入団。1974年には日立製作所の補強選手として都市対抗野球に出場。2回戦で新日本製鐵堺に補強された山口高志(松下電器)と投手戦を展開、延長14回0-1xでサヨナラ負けを喫した。翌1975年の都市対抗野球では富士重工業のエースとして出場するが、1回戦で大丸に敗退。
その後退団し、家業の寿司屋で修行をしていたが、1976年オフにドラフト外で大洋ホエールズへ入団[1]。28歳のルーキーとして話題になるが、出場機会には恵まれず1978年限りで現役を引退した[1]。
右のオーバーハンドで球の出どころがつかみにくく、コーナーをゆさぶる投球を身上とし、武器はストレート、大小2種類のカーブ、スライダー、決め球はシュートだった。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1977 | 大洋 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 20 | 4.0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4.50 | 2.25 |
通算:1年 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 20 | 4.0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4.50 | 2.25 |
背番号
[編集]- 30 (1977年 - 1978年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 柴田民男 - NPB.jp 日本野球機構