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栖原豊太郎

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栖原豊太郎

栖原 豊太郎(すはら とよたろう 1886年9月19日1968年2月25日)日本の航空工学者。

経歴

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1886年(明治19年)北海道函館市生まれ。東京市赤坂中学校、第一高等学校を経て1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進学する傍ら臨時軍用気球研究会に入り、横田成年田中館愛橘の助手を務めた。1912年(大正元年)陸軍飛行機操縦将校の教官を嘱託、1916年(大正5年)東京帝国大学航空学調査委員、1917年(大正6年)海軍大学校教官、1918年(大正7年)欧州留学、1919年(大正8年)東京帝国大学教授を務める[1]。この後、旅順工科大学教授、九州帝国大学教授。第二次世界大戦後は、1927年(昭和22年)に慶応義塾大学機械工学科教授を務めた。1968年(昭和43年)2月25日死去[2]

受賞歴

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  • 1929年(昭和4年)年度 - 朝日賞受賞(特殊高速活動写真撮影機の発明製作)[3]

脚注

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  1. ^ 第一回受賞者に坪内逍遥ら四人『東京朝日新聞』昭和5年1月25日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p7 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 「栖原豊太郎」の解説”. 講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年4月23日閲覧。
  3. ^ セルゲイ・イリユーシン:義塾を訪れた外国人”. 慶應義塾大学 (2018年11月13日). 2023年4月23日閲覧。