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都腹赤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑原腹赤から転送)
 
都腹赤
時代 平安時代初期
生誕 延暦8年(789年
死没 天長2年7月7日825年7月25日
官位 正五位下文章博士
主君 嵯峨天皇淳和天皇
氏族 桑原→都宿禰
父母 父:桑原秋成
兄弟 腹赤貞継
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都 腹赤(みやこ の はらか)は、平安時代初期の貴族漢詩人大和介桑原秋成の子。氏姓は桑原のち都宿禰官位正五位下文章博士[1]

経歴

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文章生を経て、少内記・大内記・大学頭・文章博士などを歴任し、弘仁12年(821年)には文章博士兼大内記の官職にあった。また、この間の弘仁11年(820年従五位下に叙せられている。弘仁13年(822年)弟の貞継ら一族と共に、氏姓を桑原公から都宿禰に改める。

弘仁14年(823年淳和天皇の即位に伴って二階昇進して正五位下に叙せられる。また、淳和朝の元号天長」(824年から834年)を選定した。天長2年(825年)7月7日卒去。享年37。

生前、腹赤は、弘仁11年(820年)の「須らく文章生は良家の子弟から取るべし」という新方針を「大学は才を尚ぶ処で賢を養う地」であり、「高才は必ずしも貴種ではないし、貴種は必ずしも高才ではない」と批判し、旧例に復するよう求めた。これは天長4年(827年)6月13日に淳和天皇により認められた[2]

人物

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漢詩人として、弘仁5年(814年)成立の『凌雲集』には2首が採録されているのみであるが、弘仁9年(818年)成立の『文華秀麗集』には撰者として参画し[3]、10首が入集している。有職故実書『内裏式』の編集にも参画した[4]

当時、学識や漢詩の才が抜群であったという[5]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

脚注

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  1. ^ a b 日本文徳天皇実録』仁寿2年5月22日条
  2. ^ 本朝文粋』「応補文章生幷得業生復旧例事」。古藤真平「嵯峨朝時代の文章生出身官人」, 『日本古代の「漢」と「和」』, 勉誠出版, 2015, pp. 87-89
  3. ^ a b 『文華秀麗集』序
  4. ^ a b 『内裏式』序
  5. ^ 『古今和歌集目録』都良香条
  6. ^ 『凌雲集』

参考文献

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