都腹赤
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦8年(789年) |
死没 | 天長2年7月7日(825年7月25日) |
官位 | 正五位下・文章博士 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 桑原公→都宿禰 |
父母 | 父:桑原秋成 |
兄弟 | 腹赤、貞継 |
都 腹赤(みやこ の はらか)は、平安時代初期の貴族・漢詩人。大和介・桑原秋成の子。氏姓は桑原公のち都宿禰。官位は正五位下・文章博士[1]。
経歴
[編集]文章生を経て、少内記・大内記・大学頭・文章博士などを歴任し、弘仁12年(821年)には文章博士兼大内記の官職にあった。また、この間の弘仁11年(820年)外従五位下に叙せられている。弘仁13年(822年)弟の貞継ら一族と共に、氏姓を桑原公から都宿禰に改める。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って二階昇進して正五位下に叙せられる。また、淳和朝の元号「天長」(824年から834年)を選定した。天長2年(825年)7月7日卒去。享年37。
生前、腹赤は、弘仁11年(820年)の「須らく文章生は良家の子弟から取るべし」という新方針を「大学は才を尚ぶ処で賢を養う地」であり、「高才は必ずしも貴種ではないし、貴種は必ずしも高才ではない」と批判し、旧例に復するよう求めた。これは天長4年(827年)6月13日に淳和天皇により認められた[2]。
人物
[編集]漢詩人として、弘仁5年(814年)成立の『凌雲集』には2首が採録されているのみであるが、弘仁9年(818年)成立の『文華秀麗集』には撰者として参画し[3]、10首が入集している。有職故実書『内裏式』の編集にも参画した[4]。
当時、学識や漢詩の才が抜群であったという[5]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 日付不詳:大初位下
- 弘仁5年(814年) 日付不詳:見文章生相模博士[6]
- 時期不詳:従七位下
- 弘仁9年(818年) 日付不詳:見少内記兼播磨少目[3]
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁11年(820年) 正月7日:外従五位下
- 時期不詳:従五位下(内位)
- 弘仁12年(821年) 正月30日:見文章博士兼大内記[4]
- 弘仁13年(822年) 日付不詳:桑原公から都宿禰に改姓[1]
- 弘仁14年(823年) 4月27日:正五位下(越階)
- 天長2年(825年) 7月7日:卒去(正五位下)