梶山鼎介
梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永元年10月20日[1])- 1933年(昭和8年)3月25日[1][2])は、幕末の長府藩士、明治期の陸軍軍人・外交官・政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。衆議院議員。初名・喜代三郎[1]。
経歴
[編集]長門国豊浦郡[3](現山口県下関市)で、長府藩士・梶山伴右衛門栄作の長男として生まれる[1]。慶応元年2月14日(1865年3月11日)に長府藩報国隊が結成され斥候兼応接役となる[1]。同年3月25日(4月20日)同志2名と長府藩保守派、藩目付役・林郡平を自宅で暗殺し、同年11月(12月-1966年1月)に捕縛され角島に流罪となった[1]。その後、赦免され戊辰戦争で北陸の戦闘に報国隊軍監として従軍した[1]。明治3年7月(1870年8月)豊浦藩少参事に就任[3]。
廃藩置県後、政府留学生としてアメリカ合衆国、イギリスに2年間留学し、帰国後、山口県出仕、香川県権参事を務めた[1][2][3]。1877年5月、陸軍歩兵少佐に任じられ、西南戦争に征討本部付として参戦[1][2][3]。参謀局第2課長、参謀本部管西局員を歴任[1][3]。1880年3月、清国公使館付武官となり、1885年、陸軍歩兵中佐に進級した[1][2][3]。1886年5月、公使館書記官に転じ清国在勤となる[1][3]。1888年2月、内務省地理局次長に転じ、1890年6月、地理局長に昇進[1][3]。1891年3月から1892年12月まで朝鮮国弁理公使を務め、1893年に退官した[1][3]。
1891年12月7日、咸鏡道防穀令施行(1889年)の損害として14万7168円を朝鮮政府に要求した(朝鮮側は要求を過大とし交渉難航)。
1894年9月、第4回衆議院議員総選挙で山口県第三区から出馬して当選し、国民協会に所属して一期在任した[2]。その後、帰郷し郷土の発展に尽力した[1]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第6巻』新人物往来社、1989年。