森鉐太郎
森 鉐太郎 もり せきたろう | |
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生年月日 | 1909年7月8日 |
出生地 | 愛知県 |
没年月日 | 1989年9月21日(80歳没) |
出身校 | 明治大学商学部 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 商学士 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1971年5月1日 - 1989年9月21日 |
森 鉐太郎(もり せきたろう、1909年(明治42年)7月8日[1] - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の政治家。元愛知県一宮市長(5期)。愛知県市長会会長、東海市長会会長、全国市長会副会長などの要職を歴任した[2]。
来歴
[編集]愛知県出身[3]。明治大学に在学中、病気の後遺症で右足を悪くする。1934年(昭和9年)3月に同大学商学部を卒業するも、1年間自宅療養した。1936年(昭和11年)4月、臨時職員として一宮市役所に入庁。日給1円10銭のうち、1円は往復の人力車代に使ったという。そのため戦時中は片足でも乗れる自転車を作った[4]。1950年(昭和25年)に経済部長、1954年(昭和29年)1月に企画長に就任。
1963年(昭和38年)、退職して4月の一宮市長選挙に立候補することを考えたが結局見送った。同年10月、助役に登用される。伊藤一市長が1967年(昭和42年)4月28日に6選を果たすと、ここが潮時とばかりに同年5月に助役を辞任した[4]。1969年(昭和44年)5月、名鉄丸栄百貨店の常務に就任[5]。
1971年(昭和46年)4月25日に行われた一宮市長選挙に立候補。7選を狙う現職の伊藤一、会社社長の宮田邦生を破り初当選した。この年の選挙は希にみる激戦であり、森の44,349票に対し、伊藤は43,134票、宮田は20,958票であった[6]。1987年(昭和62年)に5期目の当選を果たした。海部俊樹と江崎真澄の間の派閥争いが古くから続く一宮市にあって、森は江崎直系と言われた[7][8]。
任期中の1989年(平成元年)9月21日、心不全のため一宮市立市民病院で死去[5]。80歳没。同年9月29日、一宮市名誉市民に推挙された[2]。
脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、239頁。
- ^ a b “一宮市名誉市民”. 一宮市役所 (2017年9月13日). 2019年3月14日閲覧。
- ^ 『日外アソシエーツ whoplus』 「森 鉐太郎(モリ セキタロウ)」の項。
- ^ a b 『朝日新聞』1971年4月27日付朝刊、5面、「ストップ・ザ・七選を果した新一宮市長 森鉐太郎」。
- ^ a b 『一宮タイムス』1989年9月22日、1面、「森一宮市長が死亡 入退院、高齢で衰弱」。
- ^ 『一宮タイムス』1971年4月26日、1面、「新市長に森氏当選 伊藤氏を約千二百票引離し ついに七選阻止の悲願成功」。
- ^ 『一宮タイムス』1989年10月10日、1面、「避けられぬか〝代理戦争〟 市長選の行方を追う」。
- ^ 『中日新聞』1989年10月31日付朝刊、28面、「激震 一宮市長選 (上) 代理戦争 『江崎院政』かみつく海部派」。