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椎野英之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しいの ひでゆき
椎野 英之
生年月日 (1924-09-09) 1924年9月9日
没年月日 (1976-12-02) 1976年12月2日(52歳没)
出生地 日本の旗 日本東京都
死没地 日本の旗 日本
職業 映画プロデューサー実業家
ジャンル 映画
活動期間 1960年 - 1976年
主な作品
白と黒
サンダカン八番娼館 望郷
日本の熱い日々 謀殺・下山事件
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椎野 英之(しいの ひでゆき、1924年9月9日 - 1976年12月2日[1])は、日本映画プロデューサー実業家である。日本映画テレビプロデューサー協会事務局長[1]東宝映画常務取締役[1]を歴任した。東京都出身。

人物・来歴

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19443年[疑問点]文学座に入団。終戦の年に明治大学を卒業し時事新報の記者として入社。文化・社会・政治を中心に活躍。1950年に菓子店を経営し1951年に「雲の会」発行の雑誌『演劇』の編集者となる。1952年東宝撮影所に入社。文芸部を経て、1960年東京映画に移籍し、佐藤一郎製作のもと、川島雄三監督の映画『赤坂の姉妹 夜の肌』で「企画」としてクレジットされる[2]。翌1961年(昭和36年)には、永島一朗と連名で、女優・田中絹代の監督作品『女ばかりの夜』で「製作」にクレジットされる[2]

1971年(昭和46年)、稲垣俊監督作品『刑事物語 兄弟の掟』以降、俳優座映画放送との提携作品を手がけ始める[2]。同年の日本コロムビア(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)と東京映画との提携作品『ひばりのすべて』、『女の花道』を最後に、同年に設立された東宝映画に活動母体を移す[2]。のちに同社の常務取締役に就任する[1]

1972年(昭和47年)、『忍ぶ川』の監督に熊井啓を起用、以降、5本の熊井作品を世に出す[2]

1976年(昭和51年)、日本映画テレビプロデューサー協会事務局長として同協会の社団法人化に尽力する[1]。同年、俳優座映画放送製作の熊井監督の映画『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』の企画を開始したが、労働組合との団体交渉中に倒れ[1]、同年12月2日、同作の完成を見ずに死去した[1]。満51-50歳没。

椎野が取り組んだ日本映画テレビプロデューサー協会の社団法人化は、同年同月23日、認可が下り、同年10月23日にさかのぼって設立された[1]。翌1977年(昭和52年)、エランドール賞でエランドール協会賞を受賞した[1]。『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』は、椎野の遺志を継ぎ、1981年(昭和56年)に完成、同年11月7日に松竹配給により公開された[2]。同年に向田邦子講談社から上梓した短篇集『夜中の薔薇』に椎野をモデルにした人物が登場する。

フィルモグラフィ

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特筆以外は東京映画製作、東宝配給作品。

出典・参考文献

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  • 田中文雄『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年。ISBN 4-87376-070-4 

関連書籍

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  1. ^ a b c d e f g h i ANPAの夜明け吉村敏日本映画テレビプロデューサー協会、2009年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f #外部リンク欄の「椎野英之」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月13日閲覧。

外部リンク

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