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楠瀬幸彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1913年頃の楠瀬幸彦

楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体楠瀨幸彥1858年4月28日安政5年3月15日) - 1927年昭和2年)10月13日)は、日本陸軍軍人陸軍大臣。最終階級は陸軍中将

経歴

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土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。

東京海南私塾陸軍幼年学校を経て、1880年12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。

フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官ロシア公使館付などを歴任。

1894年11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された[1]

台湾総督府参謀西部都督部参謀長、第12師団参謀長を経て、1901年6月26日、陸軍少将に進級[2]

対馬警備隊司令官大阪砲兵工廠提理を歴任。

日露戦争では、第2軍兵站監として出征した。

第4軍創設時に砲兵部長となり、奉天会戦では満州軍重砲隊司令官として参戦した。

由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、初代樺太庁長官などを経て、1907年11月、陸軍中将に進み、第1師団司令部付、由良要塞司令官、技術審査部長を歴任。

1913年6月、第1次山本内閣軍部大臣現役武官制改正問題で騒動に責任をとって辞任した木越安綱の後を受け、ごぼう抜き人事で陸軍大臣に就任した。

翌年4月に大臣を辞任し待命となり、1915年4月16日に休職した[3]

1917年4月16日に予備役に編入され[4]、現役を退いた。墓所は多磨霊園

栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ 『官報』1896年1月23日彙報・官庁事項「軍法会議判決」
  2. ^ 『官報』第5394号「叙任及辞令」1901年6月27日。
  3. ^ 『官報』第821号、大正4年4月30日。
  4. ^ 『官報』第1413号、大正6年4月20日。
  5. ^ 『官報』第5475号「叙任及辞令」1901年10月1日。
  6. ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
  7. ^ 『官報』第386号「叙任及辞令」1913年11月11日。
  8. ^ 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
  9. ^ 『官報』第5046号「叙任及辞令」1900年5月1日。
  10. ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
  11. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  12. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
公職
先代
木越安綱
日本の旗 陸軍大臣
第22代:1913 - 1914
次代
岡市之助