榎美沙子
えのき みさこ 榎 美沙子 | |
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生誕 |
片山公子 1945年1月23日(79歳) 日本・徳島県名西郡神山町下分 |
出身校 | 京都大学薬学部 |
職業 | 女性解放運動家、薬剤師、薬事評論家 |
榎 美沙子(えのき みさこ、1945年(昭和20年)1月23日 - )は、日本の女性解放運動家、薬剤師、薬事評論家。生化学会会員、内分泌学会会員、婦人性教育協会準備会理事、中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(略称:中ピ連)代表。なお「榎美沙子」はペンネームで、結婚時の本名は木内公子(きうち きみこ)である。旧姓は片山[1]。
来歴・人物
[編集]徳島県名西郡神山町下分生まれ。実家は裕福な材木商[2]。徳島県立城東高等学校から一浪して京都大学薬学部に入学[2]。卒業後、友田製薬(現・共創未来ファーマ)に就職。大学卒業時の夢は「可愛い奥さん」になるで[2]、高校時代の初恋の男性と結婚[2]。
中ピ連代表
[編集]1967年、日本テレビアナウンサー村上節子(田原総一朗の後妻)、朝日新聞記者松井やよりらとマスコミ関係者によるウーマン・リブ団体「ウルフの会」の結成に参加し活動。1972年6月14日には、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」(中ピ連)を結成し代表となる。東京・高田馬場に本部事務所を構え、ピンク色のヘルメットをかぶっての街頭宣伝・デモ活動を行う。不倫している男性の下に集団で押しかけて吊るし上げる戦闘的な運動スタイルや、マスメディアへの積極的な露出で注目を集める。ただ、当時の経口避妊薬は副作用が大きく、それ自体が女性の体に悪影響を与え、かつ性病の蔓延を助長するという理由からあまり用いられなくなった。このため運動は下火になり、1975年に中ピ連は解散した。
日本女性党党首
[編集]1976年、オスが子育てをするタツノオトシゴをご神体とする宗教「女性復興教」を旗揚げし、自ら教祖となる。翌1977年、第11回参議院議員通常選挙に際し、中ピ連を母体として日本女性党を結成し国政進出を図るも失敗。開票日からわずか2日後の7月12日、同党は解散。美沙子は派手な衣服を身にまとい独特の選挙運動を行ったが、自身は選挙に立候補せず、「代表者が国民の審判を受けないのはおかしい」と選挙期間中からその態度に疑問の声が上がった。とりわけ、この選挙に立候補し落選した俵萌子(俵孝太郎の前妻。東京都選挙区から革新自由連合公認で立候補し落選)や吉武輝子(全国区に無所属で立候補し落選)ら別の女性解放運動家からは「なぜあなたは国民の審判を受けなかったのか」「あなたのせいで日本の女性解放運動は大きな誤解を受けた。嘲笑の的になった」「男性を排除しようというあなた方の主張は間違っている。日本女性党のおかしな運動のせいで私達の主張が有権者に伝わらなかったことが残念」と厳しく批判された。またピル解放によって利益を得る製薬会社や政治家との関係が暴かれたとされるスキャンダルも取り沙汰され[要出典]、城戸嘉世子ら日本女性党の同志の信望も失い、党は瓦解。以後活動もできなくなった。
その後のエピソード
[編集]美沙子の活動は日本社会にウーマンリブ運動の存在を初めて知らしめたものとの評価もあるが、世間には美沙子の奇矯なイメージのみが残った。
医師である夫[3]は美沙子の一連の活動に一切口を挟まず黙って見ていたが、選挙惨敗・日本女性党解散時のインタビューで「これで目が覚めただろう。選挙に出たので妻には莫大な借金がある。しっかり働かせて全額返済させる」と語り、美沙子も「以後、夫に尽くします」と家庭に入る。以後美沙子は夫の指示の下、主婦と薬剤師業に専念することになった。美沙子はそれまでの主張とは全く正反対の立場に置かれるという皮肉な結末を迎えた。借金完済後は夫に家を追い出され、1983年に協議離婚[4]。美沙子は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、更に数年後司法試験を目指して法律の勉強をしているという情報が雑誌『週刊新潮』に取り上げられた。
1992年には、みずからが事務所として一室を借りていた東京・新宿のマンションの立ち退きをめぐり、家主の日本バプテスト連盟から東京地裁に提訴されている[4]。このマンションの建物を日本バプテスト連盟が興和不動産に売却したにもかかわらず、美沙子が立ち退きを拒否したためであった[4]。当時、美沙子は、この裁判を機に「楽しく地上げと闘う会」を結成したと語っている[4]。また、
「意識して姿を消していたわけではありません。これからの運動の地ならしをして、気が付いたら十五年経っていただけです。今までは地道に組織作りに専念してきまして、その助走期間もようやく終りに近づきました。今、ジャンプに備えて身をかがめているところです」
「離婚してホッとしました。家族がいると行動が制約されるでしょう」
「女性解放運動は、私のライフワークです。ですから知的訓練を行なって、同志を育成してきました」
「生計は、翻訳で立てています。私の専門は生化学やバイオテクノロジーですが、幸いなことに、この分野の専門家は日本には少ないものですから、専門書を始め、技術文献、論文などを訳して日々の生活費にしました」
「中ピ連は、当時から非難囂々でしたが、その時の主張は今や社会の常識になりつつあります。その点、当時のタブーを破ったことは功績だと思っております。行動が過激だったなんて、少しも思いませんわ」
とも発言している[4]。
その後司法試験を受験した形跡はなく、ついに消息も不明となった。親族もその行方を知らないという[5]。
2024年6月、作家の桐野夏生が美沙子をモデルとした小説『オパールの炎』(中央公論新社)を発表[6]。執筆に際して美沙子のその後を調査したものの、消息は分からなかったという[7]。
主なテレビ出演
[編集]中ピ連を題材にしたドラマ『夜明けの刑事』(TBS / 大映テレビ)脚本:山浦弘靖、監督:井上芳夫 第45話「ハイ、こちら中ピ連です!!」(1975年10月22日放送)に自身の榎美沙子役として出演している。
著書
[編集]- 『ピル』カルチャー出版社、1973年。
- 『ピルの本』大陸書房(ムーブックス)、1976年。
共訳書
[編集]- シュラミス・ファイアストーン編、ウルフの会訳『女から女たちへ アメリカ女性解放運動レポート』合同出版、1976年。
関連書籍
[編集]- 清水一行『密閉集団 長篇社会小説』集英社、1980年12月。 - 1986年8月集英社文庫、1990年8月角川文庫、2007年6月光文社文庫(ISBN 978-4334742713)化。
- 桐野夏生『オパールの炎』中央公論新社、2024年6月。ISBN 978-4120057885。
脚注
[編集]- ^ 『週刊文春』1975年11月13日号。
- ^ a b c d https://dl.ndl.go.jp/pid/1771549/1/139
- ^ 月守晋『昭和の女性・一日一史』128ページ
- ^ a b c d e 『週刊新潮』平成4年4月30日・5月7日合併号「中ピ連『榎美沙子』が始めた新運動」
- ^ 選挙落選後、離婚、京都市内に一人暮らし、司法試験の勉強等のエピソードについては『週刊新潮』平成13年8月16日・23日夏季合併号の特集記事「ワイド 人生「秋風烈日」の悲喜劇 【民主主義が育てた「勁い女」列伝】第8回 翔んでる女「榎美沙子」「ゲバルト・ローザ」「やまのべもとこ」の消息」に掲載された。平成4年の時点では美沙子に直接取材できた同誌編集部であったが、この時には既に美沙子と連絡がつかなくなっており、同記事掲載に際して新たに本人に直接取材した内容はない。ただ同記事中、徳島県在住の美沙子の親族が同誌記者の取材に応じており、その親族は選挙落選以降の美沙子の動静について一通り語った後、「今はもう美沙子と連絡が取れず消息は分からない」(2001年現在)と述べている。
- ^ ピル解禁と中絶の自由のため闘った女性 描いた桐野夏生さんの思い2024年7月3日 『毎日新聞』(松原由佳)
- ^ 桐野夏生さんに聞く 「中ピ連」代表の榎美沙子はなぜ消えたのか 『オパールの炎』刊行した桐野夏生さんに聞く(1)(2)『AERA』 2024年7月29日号 朝日新聞出版(構成:三島恵美子) 当記事中において桐野は「今回、小説を執筆するにあたって、いろいろと調べましたが、資料がまったくなくて、情報もありませんでした」「当人に会えないどころか、生死も分からないような状態でしたから、自分がいくら調べてもなかなか実像が掴めない」「最後の情報は、約20年前に週刊誌に掲載された『あの人はいま』的な特集だけでした。それも伝聞によるもので、当時も行方は分からなかったようです。つまり、どんなに調べても何も出てこない状態でしたから、読者から頂いた手紙が結節点でした。その方にお目にかかったときに、手帳を見せてくださったんですよね。その手帳に榎さんがご自分で連絡先を書いていて、初めて肉筆を見ました。こんな字を書くんだ、と興奮しましたね。70年代にテレビなどで見てはいましたが、実際に彼女の肉体を感じるものが何もなかったんです。結局、辿りつけたのは、その筆跡だけでした。関係者でお目にかかってお話を伺えたのは、この方と、あとは元ご主人、それと幼馴染みの男性の3人です」と述べている。
参考文献
[編集]- 秋山洋子『リブ私史ノート 女たちの時代から』インパクト出版会、1993年1月、ISBN 4755400309。-「榎美沙子と中ピ連」を所収。
- 月守晋『昭和の女性・一日一史』岩波書店〈同時代ライブラリー268〉、1996年6月。ISBN 978-4002602684。
- 「榎美沙子の奇行を楽しんで眺めたこの男達(70年代を創った34人)」『文藝春秋』第57巻第13号168~170頁 1979年12月 文藝春秋
- 「一世を風靡した女たちの消息 「榎美沙子」「ケバルト・ローザ」「やまのべもとこ」」(1)(2)(3)(4)(5)(『週刊新潮』2001年(平成13年)8月16日・23日夏季合併号の特集に掲載された記事を再構成したもの)2020年10月3日 デイリー新潮