樋口勘次郎
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樋口 勘次郎(ひぐち かんじろう、明治4年11月27日(1872年1月7日) - 大正6年(1917年)12月13日[1])は、日本の教育学者。号は蘭林。
経歴
[編集]長野県諏訪郡富士見村(現在の富士見町)出身[2]。1887年(明治20年)、長野県師範学校に入り、卒業後は東筑摩郡で小学校訓導を務めた[3]。1894年(明治27年)、東京高等師範学校文学科を卒業し、同訓導・助教諭となった[3]。附属小学校主事補助を経て、1899年(明治32年)に東京高等師範学校教諭となる[3]。1900年(明治33年)から1903年(明治36年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学した[2]。
帰国後に東京高等師範学校教授になるが[3]、1904年(明治37年)に辞して、早稲田大学講師となった[2]。さらに「報知新聞」論説記者、雑誌「新教育」「帝国教育」の主筆などを務めた[2]。その他、帝国教育会主事、大日本平和協会幹事、大日本教育団幹事、教育教授研究会幹事、教育雑誌記者会幹事、奨学貯金銀行相談役、文明通信社社長、教育殖産株式会社専務取締役などを務めた[2]。
洋行前はヘルバルト理論の画一化を批判し、フランシス・ウェーランド・パーカー(en)に基づく『統合主義新教授法』を著し、洋行後は『国家社会主義新教育学』を著して「社会的教育学」を広めた[4]。
著書
[編集]- 『統合主義新教授法』(同文館、1899年)
- 『社会教科の教材及教授法』(同文館、1904年)
- 『国家社会主義新教育学』(同文館、1904年)
- 『小学校管理法』(金港堂、1904年)
- 『尋常小学話方綴方教授書』(金港堂、1904年)
- 『露国征伐 日本魂雄』(同文館、1905年)
- 『国家社会主義教育学本論』(同文館、1906年)
- 『教育新史』(金港堂、1907年)
- 『家庭小説 小さなハート』(水野書店、1907年)
- 『社会現象に結び附けたる日本教育活論』(育成会、1908年)
- 『教育勅語の御精神』(金港堂、1908年)
- 『家庭百話』(金港堂、1908年)
- 『少年衛生打明け話』(弘道館、1912年)
- 『少女衛生打明け話』(弘道館、1912年)
脚注
[編集]- ^ 『20世紀日本人名事典』、日外アソシエーツ、2004年。
- ^ a b c d e 代表的人物及事業 1913.
- ^ a b c d 現今日本名家列伝 1903, p. 912.
- ^ 日本教育学説の研究 1920, pp. 88–89.
参考文献
[編集]- 『代表的人物及事業』時事通信社、1913年。
- 渡部政盛『日本教育学説の研究』大同館、1920年。
- 『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年。