樋口杏斎
ひぐち きょうさい 樋口 杏斎 | |
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1906年(明治39年)65歳で退職の年 | |
生誕 |
樋口健三 天保13年6月7日(1842年7月14日) 阿波国那賀郡櫛淵村 |
死没 |
1917年(大正6年)11月11日 徳島県那賀郡立江町大字櫛淵 |
記念碑 | 樋口先生碑(櫛渕八幡神社) |
国籍 | 日本 |
職業 | 櫛渕尋常小学校教員 |
活動期間 | 元治元年(1864年)1月 - 1906年(明治39年)3月30日 |
影響を受けたもの | 櫛淵駒蔵、湯浅道輔、寺沢道庵、阿部有清 |
影響を与えたもの | 喜田貞吉 |
配偶者 | サダ、シゲ |
子供 | ジツ、啓三、才二、ヒデコ |
親 | 才庵、サマ |
樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842年7月14日) - 1917年(大正6年)11月11日)は幕末、明治時代の徳島県の教育者。名は健三[1]。元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。
生涯
[編集]維新前
[編集]天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた[2]。
嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町[3]の湯浅道輔に漢学を学び[2]、岡本斯文に経史学を学んだ[4]。文久3年(1863年)に帰郷し、父や寺島町の寺沢道庵に漢方医学を学んだ[2]。
元治元年(1864年)1月、自宅に寺子屋「敬義斎」を開き、村民に読み書き算盤を教えた[2]。1873年(明治6年)6月より寺島町の阿部有清に[2]代数学、幾何学を学び[5]、アイザック・トドハンターの代数書を取り寄せて研究した[3]。
櫛渕小学校時代
[編集]1874年(明治7年)4月20日、敬義斎の塾舎を利用して名東県櫛淵小学校が開設され、授業を担当した[2]。当初は6年12学級の生徒50~60人を一人で教えたが、生徒が増加すると1882年(明治15年)に旧神宮寺本堂に移り、他の教員も加わった[6]。
1881年(明治14年)1月6日、父・才庵が死去すると[2]、代々の家業を絶ちたくないとの思いから、副業として医業を継いだ[7]。
1875年(明治8年)5月5日、名東県により2等授業生となり、1877年(明治10年)2月16日に3等授業生、 1878年(明治11年)5月1日に2等授業生、1880年(明治13年)5月14日に5等助訓、11月29日に小学准訓導、1882年(明治15年)2月1日に5等訓導、1883年(明治16年)11月13日に4等訓導[2]。
1885年(明治18年)8月4日、期限満了により教員補助となったため、1887年(明治20年)2月10日、小学簡易科教員の資格を取得して19日に授業生に戻り、1892年(明治25年)6月30日に小学校訓導、1893年(明治26年)3月6日に徳島県内尋常小学校本科正教員となった[2]。
1901年(明治34年)4月2日、正式に櫛淵尋常小学校長に就任した[2]。
退職後
[編集]1893年(明治26年)に正教員となってから1906年(明治39年)に65歳でようやく恩給年限に達した際[8]、高齢のため村長に退職を勧められ[9]、3月30日に依願退職した[2]。退職後、村民により敬義会が組織され、毎月小学校で講話を行い、また農業改良や副業について研究が行われた[10]。
1917年(大正6年)秋、病床に就き[11]、11月11日死去した[2]。
敬義会はその後も活動を続け、1960年代に組織としては消滅したが、1967年(昭和42年)当時の会長が櫛渕公民館館長に就任し、活動は公民館に受け継がれている[12]。
樋口家
[編集]曽祖父・斎庵が古毛村から櫛淵村に移住し[13]、祖父・文益、父・才庵と代々医業を営んだ[14]。弟・庸節は勝浦郡芝生村吉田家を継いだ[15]。
慶応年間、勝浦郡飯谷村の多田邦太郎の妹・サダと結婚し、1867年(慶応3年)にジツ、1874年(明治7年)4月7日に啓三、1879年(明治12年)1月19日に才二を儲けた[2]。
1882年(明治15年)8月2日、妻サダが35歳で死去し、1883年(明治16年)4月9日に長女ジツも夭逝したため、1883年(明治16年)3月27日那賀郡坂野村の広沢岩吉の三女・シゲと再婚した[2]。シゲは弟・庸節の妻の妹で、若年で病により髪が抜け、婚期を逃していたため、庸節夫妻により結婚が取り持たれた[16]。1885年(明治18年)1月29日に生まれたヒデコは[2]、1902年(明治35年)に坂野村の伊丹重美に嫁ぎ千葉県に赴任したが、1903年(明治36年)冬、妊娠により帰郷中、12月12日出産の事故により死去した[17]。
嫡男・啓三は1893年(明治26年)6月17日、立江村の坂東広の長女ヒサミと結婚し、1897年(明治30年)1月13日に長女・堯子(たかこ)を儲けた[2]。1896年(明治29年)12月、志願して歩兵第12連隊に入隊し、除隊後正八位歩兵少尉[18]。1904年(明治37年)、日露戦争に後備歩兵第43連隊として出征し、遼陽会戦で負傷、10月12日の沙河会戦中三塊石山で戦死した[18]。従七位勲六等功五級陸軍歩兵中尉[13]。
1914年(大正3年)4月27日、勝浦郡生比奈村の山川善蔵の次男・耕一を孫・堯子の婿に迎えた[2]。耕一は杏斎の希望通り医業を学び[19]、1916年(大正5年)に愛知県医学専門学校を卒業し、徳島市住吉町馬場南43番地に開業し[20]、1917年(大正6年)11月24日、杏斎から家督を相続した[2]。
脚注
[編集]- ^ 喜田 1933, p. 12.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 喜田 1933, pp. 1–10.
- ^ a b 喜田 1933, p. 25.
- ^ 喜田 1933, p. 21.
- ^ 喜田 1933, p. 22.
- ^ 喜田 1933, pp. 22–23.
- ^ 喜田 1933, pp. 30–31.
- ^ 喜田 1933, p. 24.
- ^ 喜田 1933, p. 29.
- ^ 喜田 1933, p. 38.
- ^ 喜田 1933, p. 37.
- ^ 寺西 2008.
- ^ a b 喜田 1933, p. 13.
- ^ 喜田 1933, p. 30.
- ^ 喜田 1933, p. 14.
- ^ 喜田 1933, pp. 14–15.
- ^ 喜田 1933, p. 18.
- ^ a b 喜田 1933, p. 16.
- ^ 喜田 1933, p. 33.
- ^ 本田 1925, p. 徳島県3.
参考文献
[編集]- 喜田貞吉『杏斎樋口先生伝』敬義会、1933年。NDLJP:1093399
- 本田六介『日本医籍録』医事時論社、1925年。NDLJP:935301/1002
- 寺西武士 (2008年12月1日). “【5】敬義の教え 脈々と続く教育風土 有形無形に受け継がれ”. 徳島新聞 2016年2月1日閲覧。
外部リンク
[編集]- 《櫛渕小学校の地域教材》 - 小松島市立櫛渕小学校