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橋本鐵彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年[1]5月5日 - 2001年4月9日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター

来歴・人物

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東京大学出身。大学時代にはドイツ文学と新劇運動に没頭。インテリを買われ浅草で芝居の台本や芝居の現場監督をしていた。この頃に芝居を見に来た吉本の林正之助と知り合い、後に東京吉本の社長になる林弘高と3人でお茶屋で食事をする、林弘高の紹介で1931年12月に吉本興行部(のちの吉本興業)に入社。入社後は文藝部、宣伝部、映画部を立ち上げる。その後文藝部の部長になり秋田實長沖一吉田留三郎らを入社させる。1933年に宣伝部が創設されのちに部長となり「吉本演藝通信」「ヨシモト」などの広報誌を発表。1932年3月に吉本興業が「吉本興業合名会社」として改組された際に、営業品目の一つとして「漫才」の表記が既に使われていること(なお、橋本の吉本興業入社は合名会社への改組後である)などから、「漫才」の名付け親は橋本ではなく、当時同社の総支配人だった林正之助であるとする説もある[2][注 1]

戦後は常務などを歴任。1959年にはそれまで映画やプロレス興行に力を入れていたが演芸・吉本復活させるべくうめだ花月を開場に尽力。1973年林正之助の後をついで社長に就任。1977年八田竹男に社長職を譲り勇退し相談役に就任し退社。

2001年4月9日に死去。享年96。[4]

演じた人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし澤田は、別の著作で「林正之助さんぐらい思いっきり長生きすると、まわりに反論する人が誰もいないから、なんでも自分がやったことになる。」とも述べている。林没後に「漫才」の名付け親の真相について橋本に尋ねたところ、「あの方がそういわれるのだったら、そうでしょう」と回答され、「歴史は権力者のものなのだということを知らされた思いがした」と述懐している[3]

出典

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  1. ^ 『大阪お笑い学―笑いとノリに賭けた面々 (なにわ雑楽誌)』(持田寿一著、新泉社1994年(平成6年))
  2. ^ 『上方芸能・笑いの放送史』(澤田隆治著、日本放送出版協会1994年(平成6年))pp.30 - 33
  3. ^ 『決定版上方芸能列伝』(澤田隆治著、筑摩書房2007年(平成19年))p.235
  4. ^ 著名人の葬儀 - 葬儀ベストネット

関連項目

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先代
林正之助
吉本興業
社長
第5代:1973年 - 1977年
次代
八田竹男