橋谷義孝
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橋谷 義孝[1](はしたに よしたか[2][3]、1888年(明治21年)2月13日[4] - 1975年(昭和50年)3月5日[4])は、日本の農学博士[2][3][5][6]、技師[7]、実業家。酵母の専門家である。
経歴
[編集]鳥取県日野郡宮原村(のち日野郡溝口町宮原、現・西伯郡伯耆町宮原)生まれ。橋谷義治の二男[5]。溝口尋常高等小学校、鳥取県立第二中学校(後の米子中学、現・米子東高校)を経て1915年、東北帝国大学農科大学[8](現・北海道大学農学部)を卒業する[4][9]。大日本麦酒に入社する[5]。
1923年、農学博士の学位を受く[2][5]。1930年、薬用酵母剤「エビオス」を創製する[4]。1931年、麦酒醸造に関し、学術研究及び視察のため欧米に出張する[3]。名古屋工場長を経て1935年、吹田工場長[5]。
1936年、それまでの研究成果をまとめた『酵母学』(岩波書店)を刊行する。吹田商工会議所会頭、日本発酵工業社長[4]、大日本ビタミン製薬会長[6]などをつとめる。
人物
[編集]宗教は禅宗[3]、あるいは真宗[5][6]。幼少より絵画を好んだ[1]。趣味は読書、洋画[3]、運動[5][6]。住所は兵庫県芦屋市打出南宮町[3]。
家族・親族
[編集]- 橋谷家
- 父・義治 - 父・義治は日野郡書記として30年間勤続し、のち溝口村長となった[1]。
- 妻・カツヨ(1895年 - ?、鳥取、岩田熊三郎の長女)[5]
- 息子・義人[5](農学博士、大阪成蹊女子短期大学学長[10][11]、1931年 - ) - 2008年、瑞宝小綬章受章[11]。住所は兵庫県芦屋市南宮町[10]。
- 長女、二女、三女[6]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c 『鳥取県人物誌 御大典紀念』27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月5日閲覧。
- ^ a b c 『学位大系博士氏名録 昭和10年版』農学博士6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第25版 下』は48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月5日閲覧。
- ^ a b c d e 「橋谷 義孝」『20世紀日本人名事典』 。コトバンクより2020年10月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 下』ハ21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月12日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』は687頁。
- ^ 『因伯人名録 鳥取図書館叢書 第5篇』27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月1日閲覧。
- ^ 『東北帝国大学農科大学一覧 自大正5年至大正6年』卒業生190頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月12日閲覧。
- ^ 『北海道帝国大学一覧 自大正7年至8年』卒業生179頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月12日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第38版 下』は32頁。
- ^ a b 平成20年5月 第2314号(5月7日)、春の叙勲・褒章、日本私立大学協会公式サイト。
参考文献
[編集]- 東北帝国大学農科大学編『東北帝国大学農科大学一覧 自大正5年至大正6年』東北帝国大学農科大学、1912 - 1917年。
- 北海道帝国大学編『北海道帝国大学一覧 自大正7年至8年』北海道帝国大学、1918 - 1926年。
- 『鳥取県人物誌 御大典紀念』因伯社、1932年。
- 鳥取県立鳥取図書館等編『因伯人名録 鳥取図書館叢書 第5篇』鳥取県立鳥取図書館ほか、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 大日本博士録編輯部編『学位大系博士氏名録 昭和10年版』発展社出版部、1931 - 1935年。
- 広瀬弘『大衆人事録 第二十三版 西日本編』帝国秘密探偵社、1963年。
- 人事興信所編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。
- 人事興信所編『人事興信録 第38版 下』人事興信所、1995年。