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橘三喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橘 三喜(たちばな みつよし、寛永12年(1635年) - 元禄16年3月7日1703年4月22日))は、江戸時代前期の神道家である。為証庵と号した。延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著している。また、橘神道を唱道した。

経歴

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寛永12年(1635年)肥前国平戸 (現在の長崎県平戸市)に平戸七郎宮(現亀岡神社合祀)の祠官大鳥居刑部の子として生まれた。名を美津与志と言う。13歳で第4代平戸藩松浦鎮信に認められ、神道を学ぶよう命じられた。駿河国府中浅間神社の神主(現在の静岡浅間神社を構成する神部神社(総社)の神主)志貴昌興の門人となり、また吉川惟足吉田家に学んだと言われる。正保4年(1647年)には、藩主松浦鎮信の命により平戸神楽を創っている。

延宝3年(1675年)4月に江戸浅草の平戸藩藩邸を出発した橘三喜は[1]、元禄10年(1697年)9月15日に浅草に帰り着くまでの足掛け23年間に全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著した[2]。『神道史大辞典』では、『諸国一宮巡詣記』について「当時の社頭景観を伝えて珍重。」と評している[3]。巡詣の間、佐渡国一宮度津神社祭神決定に影響を与え、壱岐島一宮天手長男神社の比定を行うなど、各地において足跡を残しているが、これら橘三喜が行ったことに関して、例えば壱岐島の場合など強引な付会が殆どで、同島の式内社の比定には寧ろ更なる混乱を齎した点が指摘されるなど[4]、現在では異論や疑問が出されている[5]。『神道の思想 第3巻 神社研究編』に所収された「橘三喜が諸国一宮へ奉納したる中臣祓」[6]では、阿波国一宮大麻比古神社に橘三喜が奉納した元禄10年(1697年)4月22日付けの中臣祓が現存しており、その内容から彼が中臣祓を尊信せる事の並々でなかったことが知れる、と述べている。また同書では、橘三喜の墓碑銘中に「詣日本六十八洲一宮奉納神経」とあることから、彼は参詣した諸国一宮へ、その時々に応じた奥書を加え、木版刷の中臣祓を奉納したのではないか、と推察している。

後年、浅草の藩邸において神道の講釈をし、『諸国一の宮』によれば門人数千人を養っていたとされる[7]。また、宗源神道五十六伝と称して一派を立て、これが後に橘神道と言われた。さらに、門人であった氷川女体神社神主の武笠豊雄と共に弓矢神道を広めた。元禄16年(1703年)3月7日に69歳で没する。死後は武蔵国足立郡三室郷向山(現在の埼玉県さいたま市)にある神主武笠家の墓地へ葬られ、また吉田家から一樹霊神の神号を贈られている。

著書

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  • 『諸国一宮巡詣記』(佐伯有義 編 『神祇全書 第2輯』 皇典講究所 1907年2月 に所収)
  • 『中臣祓集説』
  • 『神道四品縁起』
  • 『神道あつめ草』

脚注

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  1. ^ 『諸国一宮巡詣記』巻末の記述によれば、江戸を出発した橘三喜は先ず故郷である平戸へ向かった。『諸国一宮巡詣記』は延宝3年(1675年)7月16日に橘三喜が平戸を発して、まず生国である肥前国の一宮、淀比咩神社(現在の與止日女神社)へ向かうところより始まっている。
  2. ^ 同書は 佐伯有義 編『神祇全書 第2輯』皇典講究所 1907年2月 に所収。ただし、現在完本は伝わっておらず、『神祇全書 第2輯』に所収されているものは抜粋となっている。
  3. ^ 薗田 稔 高橋政宣 編『神道史大辞典』吉川弘文館 2004年7月 より。
  4. ^ 式内社研究会會編『式内社調査報告』第24巻西海道 皇學館大學出版部 1978年3月。
  5. ^ 詳しくは度津神社天手長男神社を参照のこと。
  6. ^ 梅田義彦『神道の思想 第3巻 神社研究編』雄山閣出版 1974年9月 より。
  7. ^ 入江孝一郎『諸国一の宮』移動教室出版事業部 2001年6月 より。

参考文献

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  • 佐伯有義 編『神祇全書 第2輯』皇典講究所 1907年2月(1971年に思文閣より複製版が出されている)
  • 梅田義彦『神道の思想 第3巻 神社研究編』雄山閣出版 1974年9月
  • 神道大系編纂会編『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』神道大系編纂会 1986年7月
  • 入江孝一郎『諸国一の宮』移動教室出版事業部 2001年6月
  • 薗田稔 高橋政宣 編『神道史大辞典』吉川弘文館 2004年7月