歌川豊国 (6代目)
六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903年)2月3日 - 平成12年(2000年)11月11日)は、大正時代から平成時代の浮世絵師。
来歴
[編集]明治36年、2代目歌川国鶴の次男として、東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。母は四条派の絵師ゆた。祖父は歌川国鶴。始めは2代目歌川国春と号しており、明治38年(1905年)に大阪市南区(現在の中央区)徳井町に移った[1]。さらにその3年後、明治41年(1908年)には京都市に転居している。父の2代目歌川国鶴のもと、浮世絵を学んだ後、山元春挙及び中井汲泉に師事し、運筆及び風景画を習得した。大正7年(1918年)には、叔父の5代目歌川豊国に引き取られ、再び浮世絵を学んだ後、大正11年(1922年)には東京府下幡ヶ谷の前田英に師事し、写真背景画を学んでいる。作画期は大正期から平成12年(2000年)まで。
関東大震災後の大正14年(1925年)、再び大阪に移って父の跡を継ぎ、写真の背景画を生業とし、実業家として独立したが浮き沈みが激しく、挫折し、辛酸をなめたという。その傍ら、この時期に日本画を修得している。
第2次世界大戦戦時中の昭和14年(1939年)から翌昭和15年(1940年)には平和運動に参加していた。また、昭和16年(1941年)には画材の入手が難しくなってきたため、一度、画業を捨てて戦争協力の軍需工場、株式会社日本光機を設立、同社の経営を始め、戦後も商社・株式会社菱屋を経営する傍ら、初期の大正相互銀行の取締役も兼務していた。その後、昭和42年(1967年)になって、工場経営を息子に譲り、石切神社で下働きの仕事をしつつ、再び画業に戻っている。このころ、歌川国芳の流れをくむ画家中村貞以に師事、歌川派再興をめざして昭和47年(1972年)、69歳の時に歌川派最後の絵師で、叔父にあたる歌川国松の遺言により、6代目「歌川豊国」を名乗った。同時に国松に5代目歌川豊国を追号している。中村貞以が主催する春泥会展において作品を発表以降、画業に専念するようになり、昭和51年(1976年)11月19日には画号を「国春」から「豊国」と改名しており、さらに平成3年(1991年)1月30日をもって号を「豊國」と変更した。昭和53年(1978年)から三越や松坂屋などで展覧会を開催している。
6代目歌川豊国による日本画の作品として、昭和47年(1972年)制作の「牡丹」、昭和48年(1973年)の「舞妓」、昭和49年(1974年)の「菖蒲」などが知られている。昭和50年(1975年)以降、『美術家名鑑』や『美術年鑑』などに「六代目歌川豊国」として名前が掲載されるようになった。また、昭和63年(1988年)、「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」という著書を二見書房から刊行した時には多大の話題を集めた。しかし、画業のほうは昭和62年(1987年)以降、平成4年(1993年)の間においてはめぼしい作画活動が見当たらず、展覧会に関しては同昭和62年以降では平成7年(1995年)に布施東劇ロビーという映画館において開催された「六代歌川豊国浮世絵展」まで開催されなかった。
祖父の国鶴が2代目歌川豊国の門人であり、その次男であった歌川国松が叔父にあたるため、2代豊国の縁により、6代目歌川豊国を襲名した。90歳を過ぎてから、平成8年(1996年)より3年間、大阪府立桃谷高等学校の定時制夜間部に通った後、平成11年(1999年)の4月、東大阪市の自宅に近い近畿大学の法学部(二部)法律科に入学、浮世絵に関する論文により博士号を取得することを目標にし、勉学に励んでいた矢先、平成12年11月11日、急性心疾患により自宅で死去した。享年97。
歌川豊国の名跡は自身の3男が没後の2001年に7代目(歌川豊国 (7代目))を継いだ。
作品
[編集]- 「鏡獅子」紙本着色、個人蔵
- 「静と老桜」紙本着色、個人蔵
- 「紅葉」紙本着色、個人蔵
- 「舞妓図」紙本着色、個人蔵
- 「二人静」紙本着色、個人蔵
- 「牡丹」
- 「菖蒲」
脚注
[編集]- ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻には、別人とみられる歌川国春 (2代目) が掲載されている。
参考文献
[編集]- 浮世絵芸術 第49号 日本浮世絵協会編 日本浮世絵協会、1976年
- 浮世絵芸術 第139号 日本浮世絵協会編 日本浮世絵協会、2000年
- 歌川派二百年と七代目歌川豊國 歌川豊國興隆会編 歌川豊國興隆会、2002年
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