武市庫太
武市 庫太(たけいち くらた、1863年12月5日(文久3年10月25日[1][2]) - 1924年(大正13年)10月20日[1][2][3]) は、明治から大正期の農業指導者、政治家。衆議院議員。諱・英髦[1]。号・蟠松、子明、雪燈[1]。
経歴
[編集]伊予国伊予郡永田村[1][2](現愛媛県[3]伊予郡北伊予村[4]を経て現松前町永田) で、庄屋・武市元衛(英範)、ハルの長男として生まれた[1][5]。叔父・武市英俊から学び、郡中の武智五友の私塾で漢学を修めた[1]。上高柳の墨水小学校で村井俊明から教えを受け[1]、松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)に進み[1]、同志社英学校で学んだが[1][2][3]、父の病のため帰郷し[1][2]、1883年(明治16年)8月に家督を相続した[5]。
北伊予村会議員、伊予郡勧業委員、同郡徴兵参事員、学務委員、北伊予村助役などを務めた[1][3]。1894年(明治27年)3月、愛媛県会議員に選出され2期在任し[1][2][5]、同常置委員も務めた[3][4][5]。1896年(明治29年)愛媛県農会が設立され初代会長に就任した[1][2][3][4][5]。
1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙で愛媛県第1区に自由党所属で出馬して初当選[1][2][6]。以後、第11回総選挙まで5回再選され[2]、衆議院議員に通算6期在任した[1][3][4]。
1915年(大正4年)大浦事件で検挙され、1916年(大正5年)6月、高松地方裁判所で懲役3か月・執行猶予3年の判決を受けた[7]。これにより勲四等及び韓国併合記念章、大礼記念章を褫奪された[8]。
人物
[編集]松山中学校では正岡子規と交流し、のちに俳句の指導を受けた[1][2]。
国政選挙歴
[編集]- 第5回衆議院議員総選挙(愛媛県第1区、1898年3月、自由党)当選[6]
- 第6回衆議院議員総選挙(愛媛県第1区、1898年8月、憲政党)当選[6]
- 第7回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1902年8月、帝国党)次点落選[9]
- 第8回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1903年3月、帝国党)当選[9]
- 第9回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1904年3月、帝国党)当選[9]
- 第10回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1908年5月、立憲政友会)当選[10]
- 第11回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1912年5月、立憲政友会)当選[10]
- 第12回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1915年3月、無所属)落選[10]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『愛媛県史 人物』388-389頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『愛媛県百科大事典 下』104頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』78頁。
- ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』278頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』た115頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』110頁。
- ^ 『日本政治裁判史録 大正』126頁。
- ^ 官報 1918年06月06日 一五〇頁
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』33頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』73頁。