コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

毛利吉盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛利 吉盛(もうり よしもり、天保5年11月29日1834年12月29日) - 1877年)は、江戸時代土佐藩士、致道館剣道導役。小目付。官位は弾正少忠、侍従。通称は毛利恭助毛利荒次郎

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

天保5年(1834年)11月29日、土佐藩士(御馬廻役・250石)毛利吉厚(源八郎)の二男として生まれる。先祖は旧豊臣家臣で豊前小倉城主・毛利勝信(壱岐守)の弟・毛利吉雄(出羽守)。

麻田直養(勘七)に小野派一刀流剣術を学ぶ[1]安政年中に江戸へ遊学し、北辰一刀流玄武館へ入門[2]した。

剣術指南役

[編集]

文久元年(1861年)、大坂住吉陣営にて剣術指南役を任ぜられる。

文久3年(1863年)、小目付役(小監察)に任ぜられる。

薩土討幕の密約

[編集]

慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助谷守部、中岡慎太郎らと共に、薩摩藩西郷吉之助吉井幸輔、小松帯刀らが会談し、薩土密約を結んだ。

近江屋事件

[編集]

11月15日に、坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された(近江屋事件)為、11月21日、中村半次郎の案内により、谷守部とともに伏見の薩摩藩邸を訪れて御陵衛士阿部十郎に会った。阿部は谷が中岡から聞いた犯人の声色を伝えられ、犯人は新選組原田左之助ではないかという回答をしている[3]

明治維新以降

[編集]

明治元年(1868年)、京都留守居役に任ぜられる。

明治2年(1869年)3月、雲井龍雄から出羽米沢藩士・甘粕継成の紹介状を受け取り、甘粕が新政府へ出仕するきっかけを作った。

明治政府では、静岡県参事を勤める。

明治7年(1874年2月20日 - 従六位[4]

明治10年(1877年)頃に病歿したといわれる。

家族

[編集]
  • 父:毛利吉厚(源八郎)
    • 兄:毛利吉貴(新平)
    • 本人:毛利吉盛(恭助)

補註

[編集]
  1. ^ 武市瑞山と同門である。
  2. ^ 坂本龍馬とは同時期の同門人である。
  3. ^ 菊地明 (2010年11月20日). “国立国会図書館月報. 2010年 (11月) (596)”. 坂本龍馬 近江屋事件の現在. 国立国会図書館. 2018年4月11日閲覧。
  4. ^ 『太政官日誌』明治7年(第1-63号)コマ番号124

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]