毛利高範
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
毛利 高範(もうり たかのり、慶応2年12月5日(1867年1月10日) - 昭和14年(1939年)6月12日[1])は、戦前日本の華族(子爵)、貴族院議員、毛利式速記術の創始者。
生涯
[編集]肥後宇土藩主細川行真の次男として熊本に生まれた。幼名は侃次郎(なおじろう)。義理の叔母・美女子(細川立則の娘)が、豊後佐伯藩主毛利高謙の後妻となった縁で、高謙の養子となった。廃藩置県後に上京して、明治9年(1876年)に養父の死により家督を相続、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[2]。
明治21年(1888年)ドイツに留学、速記術を研究、明治24年に帰国し宮内省式部官に任命されるが明治26年に佐伯に帰り日本語速記の研究を続けた。明治40年(1907年)9月に子女の教育のため再び上京し、大正2年(1913年)6月21日[3][4]に貴族院子爵議員(以後2回当選)となる。
大正9年(1920年)7月、毛利式速記術として発表、大正12年(1923年)4月に毛利式速記学校を設立して教授した。大正13年(1924年)に私財を投じて「毛利家奉公財団」を設立し、佐伯の教育や殖産振興に努めた。昭和7年(1932年)7月9日、貴族院議員の任期満了[1]に際し、速記課に1000円を寄付した。昭和14年(1939年)自邸で病没。墓所は芝高輪の東禅寺。戒名は速記院殿開新高範大居士。
栄典
[編集]- 1896年(明治29年)12月21日 - 従四位[5]
- 1919年(大正8年)1月10日 - 正三位[6]
- 1924年(大正13年)5月31日 - 勲三等瑞宝章[7]
- 1931年(昭和6年)12月15日 - 従二位[8]
著作
[編集]著書に『毛利式日本速記術』などがある。
親族
[編集]前妻は越後与板藩第10代藩主井伊直安の娘・隆子(1871年 - 1888年)、後妻は直安の養女(直安の兄・井伊直咸の娘)・賢子である。長女の久子は黒田長和に、次女の千代子は近衛文麿に、三女の泰子はその弟秀麿に、五女の喜代子は筑波藤麿に嫁した。長男の高亮は早世し、次男の高棟が家督を継いだ。子供らはみな速記術を習得し、泰子は西園寺公望の秘書だった原田熊雄に協力して「原田日記」を口述筆記した。現在は玄孫の文孝(長女,久子の曾孫)が跡を継いでいる。
脚注
[編集]出典
[編集]- 日本速記者名鑑(1953年(昭和28年)10月28日発行)
- 日本人名大辞典(講談社)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
子爵 (佐伯)毛利家初代 1884年 - 1939年 |
次代 毛利高棟 |