コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井伊直安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井伊直安
時代 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代
生誕 嘉永4年2月11日1851年3月13日
死没 昭和10年(1935年8月25日[1]
改名 重麻呂(幼名)→直安
戒名 泰徳院殿直英方順大居士
墓所 東京都世田谷区豪徳寺豪徳寺
官位 従五位下、兵部少輔、右京亮従二位子爵
幕府 江戸幕府
越後与板藩
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直弼、母:里和(西村本慶の娘)
養父:井伊直充
兄弟 千代子直憲直咸直安直達
榊原政礼の娘、榊原政愛の養女)
増子松前崇広の娘)
直方雅二郎、隆子(毛利高範前妻)
養子:賢子(毛利高範後妻)、繁(戸田忠雄夫人)
テンプレートを表示

井伊 直安(いい なおやす)は、越後与板藩の第10代(最後)の藩主。直勝系井伊家14代。従二位勲三等

生涯

[編集]

嘉永4年(1851年)2月11日に彦根藩主・井伊直弼の四男として江戸で生まれた[2]とされているが、弘化4年(1847年)に生まれたという説もある[要出典]文久2年(1862年)9月23日、先代藩主の直充が死去する直前に養嗣子となり、同年に養父が死去したために跡を継いだ。元治元年(1864年)12月に叙任する。慶応3年(1867年)2月に右京亮に叙任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に与して功績を挙げた。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行った。また戊辰戦争の影響で一旦閉校となった藩校・正徳館を再興し、その際藩士の子弟に限らず広く領民に就学を呼びかけ「極貧者でも良し。衣食住に欠ける者は校内に寄宿しても良い」と藩民皆学を奨励した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により与板県となると、免官されて東京へ移った。

慶應義塾を卒業し[3]、明治5年(1872年)12月20日、兄の井伊直憲(元彦根藩主)と共に欧米を訪問する。明治17年(1884年)7月、華族令により子爵となる。明治25年(1892年)7月に従四位に叙せられる。明治29年(1896年)1月8日には補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され[4]研究会に属し大正9年(1920年)12月3日まで在任した[1][5]。明治30年(1897年)に正三位。大正11年(1922年)7月に従二位に昇叙、同年11月9日に長男の直方に家督を譲って隠居した。昭和10年(1935年)8月25日薨去。享年85。実父・直弼に対する敬慕の念が強く、父と同じ豪徳寺に埋葬されるのを生前から望んでいたため、同寺に墓が造られた。

墓碑の正面に「有安院殿惇德厚堂大居士」、右側面に「從二位勳三等井伊直安公墓」、左側面に「昭和十年八月二十五日薨」と刻む。

井伊直安が描いた『井伊直弼画像』。豪徳寺(東京都世田谷区)所在。世田谷区指定有形文化財(歴史資料)

直安は日本画洋画を共に良くし、特に洋画は小山正太郎に師事して巧みだった[6]。豪徳寺にある着用の直弼の肖像画(世田谷区指定有形文化財(歴史資料))[7]は直安が描いている。父が暗殺された当時、直安は9歳であり、後年記憶だけで描いたと言われている。

家族

[編集]

父母

子女

養女

  • 井伊賢子 ー 毛利高範夫人(後妻)、井伊直咸の娘
  • 井伊繁 ー 戸田忠雄夫人、井伊直咸の娘

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』34頁。
  2. ^ 大正名家録 p.1』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 『慶應義塾入社張 第二巻』592P。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、29頁。
  6. ^ 世田谷区立郷土資料館編集・発行 『平成二十四年度特別展 幕末維新 ─近代世田谷の夜明け─』 2012年11月3日、p.6。
  7. ^ せたがやの文化財 井伊直弼画像

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
与板井伊家初代
1884年 - 1922年
次代
井伊直方