井伊直安
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代 |
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生誕 | 嘉永4年2月11日(1851年3月13日) |
死没 | 昭和10年(1935年)8月25日[1] |
改名 | 重麻呂(幼名)→直安 |
戒名 | 泰徳院殿直英方順大居士 |
墓所 | 東京都世田谷区豪徳寺の豪徳寺 |
官位 | 従五位下、兵部少輔、右京亮、従二位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 越後与板藩主 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 |
父:井伊直弼、母:里和(西村本慶の娘) 養父:井伊直充 |
兄弟 | 千代子、直憲、直咸、直安、直達 |
妻 |
晴(榊原政礼の娘、榊原政愛の養女) 増子(松前崇広の娘) |
子 |
直方、雅二郎、隆子(毛利高範前妻) 養子:賢子(毛利高範後妻)、繁(戸田忠雄夫人) |
井伊 直安(いい なおやす)は、越後与板藩の第10代(最後)の藩主。直勝系井伊家14代。従二位勲三等。
生涯
[編集]嘉永4年(1851年)2月11日に彦根藩主・井伊直弼の四男として江戸で生まれた[2]とされているが、弘化4年(1847年)に生まれたという説もある[要出典]。文久2年(1862年)9月23日、先代藩主の直充が死去する直前に養嗣子となり、同年に養父が死去したために跡を継いだ。元治元年(1864年)12月に叙任する。慶応3年(1867年)2月に右京亮に叙任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に与して功績を挙げた。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行った。また戊辰戦争の影響で一旦閉校となった藩校・正徳館を再興し、その際藩士の子弟に限らず広く領民に就学を呼びかけ「極貧者でも良し。衣食住に欠ける者は校内に寄宿しても良い」と藩民皆学を奨励した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により与板県となると、免官されて東京へ移った。
慶應義塾を卒業し[3]、明治5年(1872年)12月20日、兄の井伊直憲(元彦根藩主)と共に欧米を訪問する。明治17年(1884年)7月、華族令により子爵となる。明治25年(1892年)7月に従四位に叙せられる。明治29年(1896年)1月8日には補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され[4]、研究会に属し大正9年(1920年)12月3日まで在任した[1][5]。明治30年(1897年)に正三位。大正11年(1922年)7月に従二位に昇叙、同年11月9日に長男の直方に家督を譲って隠居した。昭和10年(1935年)8月25日薨去。享年85。実父・直弼に対する敬慕の念が強く、父と同じ豪徳寺に埋葬されるのを生前から望んでいたため、同寺に墓が造られた。
墓碑の正面に「有安院殿惇德厚堂大居士」、右側面に「從二位勳三等井伊直安公墓」、左側面に「昭和十年八月二十五日薨」と刻む。
直安は日本画・洋画を共に良くし、特に洋画は小山正太郎に師事して巧みだった[6]。豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画(世田谷区指定有形文化財(歴史資料))[7]は直安が描いている。父が暗殺された当時、直安は9歳であり、後年記憶だけで描いたと言われている。
家族
[編集]父母
妻
子女
養女
- 井伊賢子 ー 毛利高範夫人(後妻)、井伊直咸の娘
- 井伊繁 ー 戸田忠雄夫人、井伊直咸の娘
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (与板)井伊家初代 1884年 - 1922年 |
次代 井伊直方 |