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民撰議院設立建白書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
民撰議院設立建白書・序文

民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は、1874年明治7年)1月17日、前参議板垣退助後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書自由民権運動の端緒となった文書である。「民撰議院設立の建白書」と言われる場合もある。

建白書の提出まで

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1873年(明治6年)末、いわゆる明治六年政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(迂郎)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。1874年1月12日、板垣らは愛国公党を結成し、反政府運動を始めた。愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。 民撰議院設立建白書の草案は古沢迂郎と小室信夫がまとめてあった。

建白書の内容

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愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)、および起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で民撰議院設立建白書を左院に提出した。左院とは、当時の立法議政機関である。

民撰議院設立建白書は、まず、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(ゆうしせんせい。有司=官僚)にあることを批判する。そして、この窮地を救う道はただ「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張るとは「民撰議院」を設立することであるとする。「民撰議院」によって有司の専権を抑え、以て国民は幸福を享受することになると主張する。

建白書の影響

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民撰議院設立建白書の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞日新真事誌』に全文掲載されて広く国民に知られた。政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。

民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。

関連項目

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外部リンク

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