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奥州七観音

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気仙三観音から転送)

奥州七観音(おうしゅうななかんのん)は、旧陸奥国内(現在の福島県宮城県岩手県青森県)にある7ヶ所の観音霊場三迫の新長谷寺並びに六箇寺六ヶ寺とも。

ここでは奥州七観音と関係の深い奥州三観音(田村三観音)気仙三観音についても記述する。

歴史

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奥州七観音は、東北地方田村語りと密接な関係にある華足寺の縁起の中に寺名がみえる。地域的には奥浄瑠璃田村三代記』が語られた宮城県、岩手県が中心となる[1]

『長谷寺霊験記』

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古くは奈良県桜井市初瀬にある長谷寺霊験譚が記された鎌倉時代前期の仏教説話集『長谷寺霊験記』に「三迫の新長谷寺」並びに「奥州の六箇寺」として所収されるは[原 1][2]

桓武天皇の時代、東夷が常陸国まで攻め上がってきたため、延暦16年(797年)12月5日に坂上田村麻呂征夷大将軍の宣旨を蒙り、長谷観音に参籠した。参籠から戻ると長谷清浄坊[注 1]に仕える童子が葦毛の馬を引いてきた。戦いの時には必ずこの馬に乗るようにとのことで、田村麻呂は悦んだ。次の年の正月16日に京から常陸国に向かった。件の馬は手綱を向けずとも進むべきに進み、退くときに退き、海は水面を走り、山は高峰を飛び越え、射られても矢は立たず、傷を負ってもすぐ治る、尋常の馬ではなかった。田村麻呂は征夷を成したが陸奥国三迫でこの馬が忽として死んだため、石の唐櫃に納めて埋葬した。この墓は光を放ち、異香を燻じること7日、不思議に思って墓を掘ると、生身の十一面観自在菩薩が在り、田村麻呂はあの馬は長谷観音の化身で、日本を助け、我が願いを成したと尊く覚え、この地に寺を建てて新長谷寺と名付けた。また奥州に6箇所の寺を建て、延暦19年(800年)6月16日に同時に供養した。田村麻呂は分身して6箇所同時に着座して聴聞したが、これは田村麻呂は毘沙門天の化身だからであった。京に凱旋した田村麻呂は、長谷寺清浄坊の上人に話をしたが、上人は全く知らず、馬を引いてきた童子も知らなかった。田村麻呂は葦毛の馬は長谷観音のご利益だと確証が得られた。 — 『長谷寺霊験記』下 第5「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」より大意

「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」は長谷信仰を伝え、各地に新長谷寺を建立した勧進聖たちによって創出、管理された説話である。主人公を「光り輝く馬」におき、舞台を「奥州三迫」としている背景には、当時の奥州が最大の産金地で、名馬の産地としても急成長する時代にあったことが挙げられる。これらの霊験譚は田村麻呂の事績と結び付いて創られた[2]。奥州に入った長谷寺の勧進聖たちの活動を保証したのは、安倍氏の中枢にいた藤原経清であったと考えられる[3]

『風土記御用書出』

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『長谷寺霊験記』の成立から約400年後に記された華足寺の縁起では「三迫の新長谷寺」並びに「奥州の六箇寺」の寺名がみられる。仙台藩安永年間(1772年 - 1781年)にまとめた『風土記御用書出』の「華足寺書上」に「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」として所収される[原 2][4]

桓武天皇の時代、大武という鬼神が伊勢国鈴鹿山まで攻め登り、坂上田村丸が征夷大将軍を賜って、鬼神退治の宣旨を蒙ったため鈴鹿山で合戦をしたが、ことのほか打ち負けた。田村丸は千手観音に祈願したところ、たちまち利生が顕れて鈴鹿御前と対面し、鬼神退治の秘術を伝授され、これを有して合戦すると、鬼神は打ち負けて奥州へ逃げ下り、栗原郡に身を隠した。そこが今の大嶽観音である。彼らの同類は7ヶ所にいて朝敵となった。
奥州に勅が下って、仙道で鬼神退治のご祈祷として大元明王の法をおこなわせ、今は田村明王という。田村丸が奥州の鬼神退治の宣旨を重ねて賜って下るときに大和国長谷寺雲井坊[注 2]の使いが、はなのわれたる芦毛の馬を引いてきた。この馬に乗って奥州へ向かうと2夜3日で佐沼に着いた。鈴鹿御前が先にいて、大武は誑かされて毒酒をすすめられ、酔い臥せて不覚の有り体だった。将軍は太刀を抜いて首をはね、そこに首を埋めて上に観音を建立したのが今の大嶽観音である。骸は箟岳に埋めてその上に観音を建立して守護させた。この鬼神の同類は湊の牧山、水越の長谷、ひるかの小迫、鱒淵の華足寺、南部の三戸とはつ[注 3]の7ヶ所に居を構えたが、悉く退治されていずれにも観音を建立した。平城天皇大同元年(806年)丙犬5月壬午の日午の時、同時に棟上げがあったが田村丸は7ヶ所にの棟上げに立ち会った。通力早馬がいたためであった。
7ヶ所を巡って最後の華足寺で万成就したため、かの馬は死んだ。馬頭観世音であった。田村丸はかの馬を観音堂の上の山に埋め石経を書かせて塚を築いた。その後は夜になると光を放ち、不思議に思った人々が掘ると、馬は金色の馬頭明王として顕れ、石の箱をしたためて鬼門の方に埋め置いた。奥州の名馬はかの馬の残骨で、馬頭明王は馬の総鎮守である。(後略) — 『風土記御用書出』「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」より大意

「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」は慶長17年(1612年)頃、華足寺に滞留していた旅の僧が、地元の古老2人から聞いたという縁起で、荒唐無稽な物語と考えていたが、のちに長谷寺に参拝したときに『長谷寺霊験記』を読んだところ、華足寺の縁起と酷似していたため、寛永17年(1640年)5月11日に郡奉行所に申し上げるよう鱒淵村肝煎の人々に武蔵国中野の宝仙寺から出した文書である。『長谷寺霊験記』では東夷が常陸国まで攻めてくるのに対し、華足寺の縁起では鬼神が鈴鹿山に攻め上がるとある。他にも坂上田村丸や鈴鹿御前など御伽草子の登場人物に置き換えられているなど、基本的構造は『長谷寺霊験記』を残しつつ、御伽草子など後代の作品と交流したことで、新らたな物語の挿入や改変がされている[4]

また「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」では「三迫大嶽観音涌谷箟嶽観音湊牧山観音水越観音小迫観音鱒淵華足寺馬頭観音南部三戸長谷」と具体的に寺名が記される。『長谷寺霊験記』が創出された時代は奥州藤原氏が絶頂期を迎えた時期に当たるため、華足寺の縁起に登場する寺院は当時から実在していたと考えられる[4]

後世への影響

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東北の田村語りは壮大なスケールで語られたことから、単独の寺院の縁起として独立して語られることはなく、東北地方の広範囲で人々の要求に応えるように七観音以外にも、各地の寺社と深い関係をもった。

奥州三観音

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奥浄瑠璃『田村三代記』では箟嶽山牧山、富山、大嶽山に大嶽丸の首、胴、足、手が埋められたという物語が創出された。いずれも田村麻呂創建の伝承を持ち、十一面観音を本尊としていた[5][6]

奥州霧山から姿を消した大嶽丸を田村丸、立烏帽子、霞野忠太[注 4]の主従3人が「箟嶽山きりんが窟」で討伐した。田村丸は大通連、小通連、剣明剣そはやの剣を投げて観音に祈ると、剣は虚空を切って廻り、大嶽丸の骸を4つ切りにした。大嶽丸の死骸は土地の人たちと佐沼の郷へ運び、死骸を守るために霞野忠太を残して、田村丸夫婦は伊勢の御殿へと帰った。(中略)その後、帝から鬼神を封じる宣旨が下った。田村丸は比叡山の座主・慈覚僧正吉田社家を伴って奥州へと向かった。達谷が窟では慈覚僧正が7日7夜の護摩を焚き、吉田社家が108体の毘沙門天を造立した。箟嶽山ではきりんが窟を平らにして大嶽丸の首を築きこめて塚に観音堂を建て、無夷山箟峰寺の額をかけた。牧山には胴を築きこめて塚を造り、観音堂を建立した。富山にも足を築きこめて観音堂を建て、佐沼の郷の大嶽丸の死骸を置いたところにも手を入れて塚を築き地名を大嶽として観音堂を建立した。箟嶽山、牧山、富山、大嶽には慈覚僧正が自ら造った観音が祀られた — 『田村三代記』より大意

このうち首塚を築いて観音堂を建てた箟嶽山(箟峯寺)、胴塚を築いて観音堂を建てた牧山(梅渓寺)、足塚を築いて観音堂を建てた富山(大仰寺)は奥州三観音(田村三観音)と呼ばれる[7]。また大嶽山(興福寺)は『長谷寺霊験記』での「三迫の新長谷寺」にあたる。

気仙三観音

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大嶽丸の残党と目される三鬼(早虎、金丈、猪熊)の残党退治譚が記された気仙郡の猪川観音(長谷寺)、小友観音(常膳寺)、矢作観音(観音寺)の気仙三観音の勧進由来など、様々な縁起のバリエーションが創出された。これらの根底には『長谷寺霊験記』にみられる東北地方の観音信仰があった[8][9]

史実性の議論

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仙台藩士・佐藤信要寛保元年(1741年)に記した『封内名跡志』では、長谷大悲閣(長谷観音)について田村麻呂の観音には長谷寺を移したとあるものが多いが田村麻呂が信仰したのは山城清水寺であるとして「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」、馬頭閣(鱒淵観音)について田村麻呂東征の時にこの地を通過したことは正史旧記に見えないとし「尤も疑ふべし」と断じている。また江戸時代安永年間(1772年 - 1781年)に相原友直仙台藩の風土を記した『平泉雑記』の「田村将軍建立堂社」でも、田村麻呂建立の観音は「大同2年」が多く、悉く信用が不足していると述べている[10][11]

奥州七観音の一覧

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大嶽観音

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  • 大嶽山 興福寺(おおだけさん こうふくじ)
    • 宮城県登米市南方町本郷大嶽
    • 奥州七観音(新長谷寺)
    • 奥州三十三観音 第10番

『風土記御用書出』では大武の首を埋めて観音を建立したとある。奥浄瑠璃『田村三代記』では大嶽丸の手を埋めたと語られる[7]

箟岳観音

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  • 無夷山 箟峯寺(むいざん こんぽうじ)
    • 宮城県遠田郡涌谷町箟岳
    • 奥州七観音(六箇寺)
    • 奥州三観音(田村三観音)
    • 奥州三十三観音 第9番

『風土記御用書出』では大武の骸を埋めて観音を建立したとある。奥浄瑠璃『田村三代記』では大嶽丸が籠った「箟嶽山きりんが窟」として登場する。また首塚を築いて観音堂を建てたと語られる。箟峯寺の縁起では、延暦年間に延鎮が開基、大同年間に坂上田村麻呂が観音堂を建立して霧嶽山正福寺とし、嘉祥年間に慈覚大師が中興して無夷山箟峯寺と改めたと伝える。箟嶽山には洞窟がなく、霧嶽山正福寺の「キリ」から考え出されたものと思われる[12][7]文化7年、坂上田村麻呂一千年忌に牧山観音とともに供養塔が建立された[注 5]

牧山観音

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奥浄瑠璃『田村三代記』では胴塚を築いて観音堂を建てたと語られる。牧山はかつて石巻山、魔鬼山、龍巻山とも呼称され、石巻の地名の由来となった。牧山山頂の観音堂は明治の神仏分離で零羊崎神社となり、坂上田村麻呂像と悪玉御前像を伝え、十一面観音は近くの長禅寺に移された[7]。文化7年、坂上田村麻呂一千年忌に箟岳観音とともに供養塔が建立された[注 6]

長谷観音

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  • 遮那山 長谷寺(しゃなさん ちょうこくじ)
    • 宮城県登米市中田町浅水
    • 奥州七観音(六箇寺)
    • 奥州三十三観音 第24番

小迫観音

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  • 楽峰山 勝大寺(らくほうざん しょうだいじ)
    • 宮城県栗原市金成小迫
    • 奥州七観音(六箇寺)
    • 奥州三十三観音 第22番

『封内名蹟志』にみられる勝大寺の略縁起では俊輔俊仁俊宗[注 7]と、御伽草子の人物が登場している。江戸時代初期に草子群が巷で広まっていたため、当時『鈴鹿の草子』を読んだ知識人の手によって、以前からあった勝大寺の略縁起の主人公を改めたものと考えられる[13][8]

鱒淵観音

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  • 竹峯山 華足寺(ちくぶざん けそくじ)
    • 宮城県登米市東和町米川
    • 奥州七観音(六箇寺)
    • 奥州三十三観音 第15番

三戸長谷

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元は青森県三戸郡三戸町名久井岳山腹にあった長谷寺。南部氏三戸城から盛岡城へ居城を移すと長谷寺も同行したため、現在は塔頭(末寺院)の宝珠山恵光院が残るのみである[14]。田村麻呂が建立した十一面観音堂に起源を持つ。

関係する伝承地

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田村明王

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田村麻呂が鎮守山泰平寺を建立し、本尊として大元帥明王像を安置したのが田村神社の元となる。「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」で大元明王の法がおこなわれた田村明王。

富山観音

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  • 富春山 大仰寺(ふしゅんざん だいぎょうじ)
    • 宮城県宮城郡松島町手樽
    • 奥州三観音(田村三観音)
    • 奥州三十三観音 第7番

奥浄瑠璃『田村三代記』では足塚を築いて観音堂を建てたと語られる。坂上田村麻呂像が伝えられている[7]。奥州七観音ではないものの牧山観音や箟岳観音とともに奥州三観音とされ、奥州七観音との関係性も深い。

猪川観音

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奥州七観音に影響を受けて、大嶽丸の残党と目される三鬼のうち「金丈」の残党退治譚が創出された。

小友観音

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奥州七観音に影響を受けて、大嶽丸の残党と目される三鬼のうち「早虎」の残党退治譚が創出された。

矢作観音

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奥州七観音に影響を受けて、大嶽丸の残党と目される三鬼のうち「猪熊」の残党退治譚が創出された。

脚注

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原典

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  1. ^ 『長谷寺霊験記』下 第5「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」
  2. ^ 『風土記御用書出』「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」

注釈

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  1. ^ 長谷寺六坊の一つ、清浄院。跡地には宗宝蔵が建つ
  2. ^ 長谷寺六坊の一つ、月輪院雲井寮
  3. ^ 原文ママ、「南部の三戸とはつ」は「南部三戸長谷」のこと
  4. ^ 阿部幹男は、田村男猿こそ『田村三代記』の御狩で大活躍する霞ノ源太を彷彿とさせるとしている
  5. ^ 板碑に「征夷将軍田村麻呂一千年供養」、右側に「文化七庚午天五月二十三日」、左下に「箟峰寺衆徒中謹白」と記されている
  6. ^ 板碑に「征夷将軍田村麻呂一千年供養」、右側に「文化七庚午天五月二十三日」、左下に「當山現住雄淳謹白」と記されている
  7. ^ 御伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』は俊祐・俊仁・俊宗の三代にわたる物語

出典

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  1. ^ 阿部 2004, pp. 101–102.
  2. ^ a b 阿部 2004, pp. 80–82.
  3. ^ 阿部 2004, pp. 240–241.
  4. ^ a b c 阿部 2004, pp. 82–88.
  5. ^ 阿部 2004, pp. 31–33.
  6. ^ 内藤 2007, pp. 205–207.
  7. ^ a b c d e 内藤 2007, pp. 230–231.
  8. ^ a b 阿部 2004, pp. 110–111.
  9. ^ 阿部 2004, pp. 116–120.
  10. ^ 高橋 1986, pp. 209–211.
  11. ^ 高橋 1986, pp. 211–212.
  12. ^ 内藤 2007, pp. 228–230.
  13. ^ 阿部 2004, pp. 108–109.
  14. ^ 阿部 2004, pp. 109–110.

参考文献

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  • 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店三弥井民俗選書〉、2004年1月。ISBN 4-8382-9063-2 
  • 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版)吉川弘文館人物叢書〉、1986年。ISBN 4-642-05045-0 
  • 内藤正敏『鬼と修験のフォークロア』法政大学出版局〈民俗の発見〉、2007年3月。ISBN 978-4-588-27042-0 

関連項目

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