水谷助六
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時代 | 幕末、明治 |
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生誕 | 天保11年10月21日(1840年11月14日) |
死没 | 大正6年(1917年)8月19日 |
改名 | 岩本鈴吉、水谷助六 |
別名 | 幼名:鈴吉、通称:助六、名:惇章、字:笑鼠[1] |
戒名 | 松吟院風外幽声居士[1] |
墓所 | 広路町光真寺 |
主君 | 徳川慶臧、慶恕、茂徳、義宜、慶勝 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 岩本氏、藤原姓水谷氏 |
父母 | 水谷義三郎 |
子 | 水谷鉾太郎、文応、光三郎 |
水谷 助六(みずたに すけろく)は、幕末の尾張藩士。祖父水谷豊文、父水谷義三郎と同様本草学を修め、嘗百社の人物と交流した。
生涯
[編集]天保11年(1840年)10月21日、尾張藩士岩本又七の次男として生まれた[1]。弘化4年(1847年)2月12日水谷義三郎の婿養子となり、馬廻組を継いだ[2]。
安政3年(1856年)4月6日寄合組に転じ、安政5年(1858年)11月20日小姓となり、参勤交代に従い江戸に上った[2]。文久3年(1863年)7月1日小姓頭取となり、9月徳川茂徳隠居後も引き続き茂徳に付いた[2]。
文久4年(1864年)2月4日手筒頭格、中奥中小姓[2]。慶応3年(1867年)3月18日人員削減により普請役に回され、明治2年(1869年)9月2日一等兵隊に属し、明治4年(1871年)2月23日辞職した[2]。
以降も嘗百社の人々と交流を続け、明治17年(1884年)伊藤圭介邸の「リヽオデンドロン樹」、明治22年(1889年)11月田中節三郎持参の「アツフロ」等を写生している[3]。
大正6年(1917年)8月19日午前4時頃死去し、広路町光真寺に葬られた[1]。
著書
[編集]- 「愛知県下柿実之図」 - 明治22年(1889年)愛知県下の柿の実33種を調査、写生し、大日本農会に出品したもの[1][3]。
- 「愛知県熱田海魚介譜」 - 県の依頼により明治22年(1889年)3月から明治23年(1890年)4月まで熱田魚問屋島本権左衛門宅で製作したもの。145種を収める[1]。島本権左衛門は名古屋の秤座「守隨商店」の12代当主守隨鑅之助の八男狗郎で、熱田木之免町の魚問屋島本家の養嗣子となり島本家12代目当主を継いだ人物である[4]。
家族
[編集]- 実父:岩本又七 - 尾張藩士。高須藩領寺社町方奉行、在京御用達役等を務め、慶応元年(1865年)11月没[5]。
- 義父:水谷義三郎 - 尾張藩士。
- 長男:水谷鉾太郎[1]
- 次男:水谷文応[1]
- 三男:水谷光太郎[1]
光太郎は中区大池町一丁目38番地の家を引き払い、知多郡八幡町字細見41番地に移った[1]。