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水谷義三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水谷 義三郎
時代 江戸時代後期
生誕 文化3年12月11日1807年1月19日
死没 弘化3年12月13日1847年1月29日
別名 通称:助六、義三郎、諱:光文(光之[1])、豊光[2]、字:章甫[2]、号:鉤致堂[3]
戒名 霊台院徹叟玄心居士[2]
主君 徳川斉温斉荘斉臧
尾張藩
氏族 一色氏藤原姓水谷氏
父母 水谷豊文
水谷助六
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水谷 義三郎(みずたに ぎさぶろう)は、江戸時代後期の本草学者尾張藩大番組嘗百社盟主水谷豊文の養子。

概要

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文化3年12月11日(1807年1月19日)、江戸市ヶ谷尾張藩士一色九郎右衛門[4]の三男として生まれた[2]。九郎右衛門の名古屋での住所は南呉服町[2]。次兄は大津町の毛利家に養子に入ったという[2]

文政4年(1821年)9月徳川斉温御目見天保4年(1833年)5月水谷豊文の家督を相続し、馬廻組に配属され、8月御薬園御用出役を兼ねた[2]。天保7年(1836年)6月大番二番奥田矢左衛門組に転じ、天保13年(1842年)12月29日遠藤勘左衛門に代わり大番組与頭並に昇進し、天保14年(1843年)9月御薬園御用手伝を兼ねた[2]弘化2年(1845年)12月義三郎と改名し、弘化3年12月13日(1846年1月29日)没[2]

娘は4人いたが、男子はなかったため、岩本又七次男を養子とし、水谷助六の名を継がせた[2]

ある年の盆前頃、豊文と春日町泰昌寺に墓参し、先祖の墓碑を掃除中、側にあった蜂の巣を箒で払った所、蜂に襲撃され、片眼を失ったという[2]

著作

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  • 天保13年(1842年)8月「木曽採薬」[5]

脚注

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  1. ^ 磯野 & 田中 2010, p. 36.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 吉川 1927.
  3. ^ 磯野 & 田中 2010, p. 37.
  4. ^ 磯野 & 田中 2010, p. 33.
  5. ^ "木曽採藥記 2巻 / 水谷豊文" - 東京大学OPAC、NCID BB193760682015年12月26日閲覧。

参考文献

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