コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

汾陽光二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
汾陽 光二かわみなみ みつじ
生誕 1876年5月27日
日本の旗 日本鹿児島県
死没 (1938-10-31) 1938年10月31日(62歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896年 - 1929年
最終階級 陸軍中将
除隊後 三重県桑名郡桑名町長、三重県町村長会長
墓所 多磨霊園
テンプレートを表示

汾陽 光二(かわみなみ みつじ、1876年明治9年〉5月27日 - 1938年昭和13年〉10月31日[1])は、日本陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功五級[2]

経歴・人物

[編集]

鹿児島県士族・汾陽光輝の次男として生まれ、先代の光清の養子となり、1877年(明治10年)に家督を相続する[3]陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)に陸軍士官学校第8期卒業[2][4][5]

1897年(明治30年)6月に陸軍歩兵少尉歩兵第39連隊大隊長、1900年(明治33年)に歩兵第11旅団副官を経て、1904年(明治37年)に歩兵第13連隊中隊長として日露戦争に従軍[2]

日露戦争の後は、1912年大正元年)9月に本職を免じられ名古屋陸軍地方幼年学校長、1916年(大正5年)1月に陸軍歩兵中佐歩兵第33連隊附、1917年(大正6年)8月に本職を免じられ桑名連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第36連隊長(第9師団、歩兵第6旅団)に任官[1][4][5]。連隊長としてシベリアに出征し、ザバイカル方面での作戦に参加した[4]

その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将第11師団司令部附、1924年(大正13年)12月に歩兵第27旅団長、1928年(昭和3年)8月に陸軍中将・由良要塞司令官を経て、1929年(昭和4年)8月1日に待命、同月31日に予備役に編入した[1][4][5]

退役後は、三重県桑名郡桑名町長や三重県町村長会長などを歴任した[2]

栄典

[編集]

親族

[編集]
  • 次男:汾陽光文(陸士42期、陸大54期、陸軍中佐、自衛隊空将)[10]
  • 娘婿:木佐木久(陸軍少将)[11]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』240頁。
  2. ^ a b c d 『人物月旦』5頁。
  3. ^ 『人事興信録』第8版、カ206頁。
  4. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』241頁。
  5. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』135頁。
  6. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
  7. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
  8. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  9. ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
  10. ^ 『人事興信録』第9版、カ189頁。
  11. ^ 『人事興信録 第11版 改訂版 上』(人事興信所、1938年)カ272頁

参考文献

[編集]
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 伊勢新聞社桑名支局 編纂『人物月旦』伊勢新聞社桑名支局、1933年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第9版、人事興信所、1931年。