沈彦俸
表示
沈彦俸 | |
---|---|
生誕 |
1922年10月14日 日本統治下朝鮮忠清南道牙山郡 |
死没 |
1954年11月19日(32歳没) 大韓民国忠清南道大田市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 |
少尉(日本陸軍) 中将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第41墓域 |
沈 彦俸(シム・オンボン、沈彥俸、심언봉)は、大韓民国陸軍の軍人。
経歴
[編集]忠清南道牙山に生まれる。普成専門学校に入学[1]。学徒出陣して日本軍に入隊。
1946年1月28日付で軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10022番)[2]、第2連隊創設要員[3]。
1946年5月1日、第2連隊長代理(中尉)[4]。
1946年9月11日、第6連隊長[5]。
1947年10月22日、第7連隊長(少佐)[5]。
1950年6月10日、陸軍本部兵器監(~10月26日)[7]。
1951年、第3軍団参謀長。同年6月22日、国防部兵器行政本部長[8]。
1951年7月、国民防衛軍事件の裁判で中央高等裁判長に任命[9]。
1952年1月25日、憲兵司令官[10]。
1953年6月15日、第2訓練所長[12]。
1954年5月28日、少将[13]。同年6月、アメリカ留学[14]。同年11月19日、大田で殉職。1987年5月21日、国立大田顕忠院に安葬。
出典
[編集]- ^ 国防軍史研究所2 1997, p. 30.
- ^ 佐々木 1983, p. 86.
- ^ 佐々木 1983, p. 130.
- ^ 佐々木 1983, p. 193.
- ^ a b 佐々木 1983, p. 196.
- ^ 佐々木 1983, p. 214.
- ^ 国防軍史研究所5 1997, p. 30.
- ^ 박동찬 2014, p. 96.
- ^ “국민방위군 사건(2)-의문을 남겨둔 채 역사 속으로” (朝鮮語). 통일뉴스. (2017年1月3日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 103.
- ^ “第二訓練所 副所長 沈彥俸准將任命” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年9月5日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 136.
- ^ “長官級 27名 昇進” (朝鮮語). 부산일보. (1954年5月30日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ “沈언俸少將渡美 第二訓練所長更迭” (韓国語). 国史編纂委員会. 2016年1月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』(第4刷)原書房、1983年。ISBN 4-562-00798-2。
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
- “護國戦歿勇士功勳錄 第2卷(創軍期:김숙봉~류지열)” (PDF) (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2021年9月5日閲覧。
- “護國戦歿勇士功勳錄 第5卷(創軍期:유재익~이칠규)” (PDF) (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2021年9月5日閲覧。
- “沈彦俸”. 国立大田顕忠院. 2021年9月5日閲覧。
軍職 | ||
---|---|---|
先代 金炯一 |
大韓民国陸軍本部兵器監 第4代:1950.6.10 - 1950.10.26 |
次代 安東淳 |
先代 崔慶禄 |
大韓民国陸軍憲兵司令官 第9代:1952.1.25 - 1952.9.20 |
次代 石主岩 |
先代 李成佳 |
大韓民国陸軍第2訓練所長 第3代:1953.6.15 - 1954.6 |
次代 咸炳善 |
公職 | ||
先代 李鍾賛 |
大韓民国国防部兵器行政本部長 第6代:1951.6.22 - 1952.1.22 |
次代 姜英勲 |