河合弘道
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河合弘道 かわい ひろみち | |
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生年月日 | 1907年11月3日 |
出生地 |
鳥取県西伯郡米子町 (現:米子市) |
没年月日 | 1991年12月15日(84歳没) |
出身校 | 日本大学 |
称号 |
米子市名誉市民(1987年)[1] 勲三等瑞宝章(1983年)[1] |
配偶者 | 妻・河合愛子 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1963年4月 - 1983年4月 |
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日[1] - 1991年(平成3年)12月15日[1][2])は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。
経歴
[編集]1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業[1][4]。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる[3]。
1946年(昭和21年)故郷米子に帰り[3]、金光教米子教会長に就任[5]。
戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ[6]。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選[1]、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した[1][6]。
人物像
[編集]家族・親族
[編集]河合家
[編集]- (岡山県井原市芳井町、鳥取県米子市)
- 河合家は祖父・嘉藤次が岡山県後月郡川相村(現在の井原市芳井町)から米子に移住、金光教米子教会の初代教会長に就任、父・四郎一が二代教会長を勤め、一家をあげて人の世に尽くす志が厚かった[3]。
著書
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年。
- 『第廿一版 人事興信録 上』人事興信所、1961年。
- 『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ、1999年。
- 『勝田ヶ丘の人物誌』編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 、2000年。418-420頁