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法仁入道親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法仁入道親王
続柄 不明(後醍醐天皇皇子)

全名 不明(・躬良)
身位 親王のち入道親王
出生 不明(正中2年(1325年))
死去 不明(文和元年/正平7年10月25日1352年12月2日))
父親 不明(後醍醐天皇
母親 不明(二条藤子
役職 六勝寺検校
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法仁入道親王(ほうにんにゅうどうしんのう)は、南北朝時代入道親王後醍醐天皇崩御から約90年後に完成した『本朝皇胤紹運録』およびそれ以降の文献では、後醍醐皇子で、母は二条藤子二条為道の娘)、また懐良親王の同母兄弟であると伝えられている。

同時代史料

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法守入道親王による和歌(『新千載和歌集』哀傷・2269)の詞書に「法仁法親王かくれ侍て後(略)」[1]とあり、法仁という男性皇族が実在したことが確認できる。

『本朝皇胤紹運録』

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後醍醐天皇が崩御してから約90年後に編纂された『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))では、法仁は後醍醐の皇子として言及される[2]。同書によれば仁和寺に所属し、母は懐良親王と同じ(つまり二条藤子)だが、早逝したという[2]

「仁和寺御伝」

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法仁に関するまとまった記述は、『仁和寺史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」がほぼ唯一の史料である[3]。これは、1500年前後に活躍した尊海によって、後醍醐崩御から150年以上後の文亀4年(1504年)1月に第一稿が書かれたものである[4]

同書によれば、生誕は正中2年(1325年[3]建武元年(1334年)に親王宣下を受けて「躬良親王」となり、延元3年/暦応元年(1338年仁和寺大聖院で出家[3]

正平5年/観応元年(1350年)に法守入道親王後伏見天皇皇子)から伝法灌頂を受けた[3]。翌年二品に叙され、綱所を下賜され、六勝寺検校に補任された[3]

文和元年/正平7年10月25日1352年12月2日)に入滅、享年数え28歳[3]

脚注

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参考文献

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  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus『法仁入道親王』 - コトバンク
  • 内外書籍株式会社 編「本朝皇胤紹運録」『新校群書類従』 4巻、内外書籍、1930年、379–498頁。NDLJP:1879733/214https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733/214  オープンアクセス
  • 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公新書 886〉、1988年。ISBN 978-4121008862 
    • 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公文庫〉、2007年。ISBN 978-4122049307  - 上記の文庫化、改訂新版
  • 田中久夫「仁和寺御伝」『国史大辞典吉川弘文館、1997年。