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波多野秀治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
波多野 秀治
波多野秀治肖像(東京大学史料編纂所所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正7年6月8日1579年7月1日
戒名 大雄院殿英山玄功大居士
墓所 兵庫県丹波篠山市の波多野家墓所
官位 右衛門大夫、贈従三位[1]
氏族 丹波波多野氏
父母 父:波多野元秀?
兄弟 秀治秀尚秀香
別所長治室?[注釈 1]、定吉?
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波多野 秀治(はたの ひではる)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国武将八上城主。丹波波多野氏最後の当主。

生涯

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波多野元秀の跡を継ぎ、波多野家当主となる[9]

元秀は細川晴元を支援して三好長慶と抗争し、永禄2年(1559年)12月頃、三好家臣・松永長頼に居城・八上城を奪われた[10]。しかし、長頼戦死後の永禄9年(1566年)2月、元秀は八上城を奪還する[11]

永禄3年(1560年)10月には、秀治とみられる波多野右衛門が、三好長慶と敵対する畠山高政援護のため京都へ派遣されるが、その際、右衛門の弟が討死している(『長享年後畿内兵乱記』)[12]

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った[13]。秀治は信長に太刀や馬を贈り、元亀元年(1570年)11月24日付でその返礼を受け取っている[13]

天正3年(1575年)10月、荻野直正退治のため、織田信長が明智光秀の軍勢を丹波に派遣してくる[14]。この時、丹波衆の大半が光秀に味方し、秀治もその中へと加わっていたが、天正4年(1576年)1月、秀治は突如叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い[14]

天正6年(1578年)3月、光秀は再び丹波に出陣すると秀治の籠る八上城を包囲し、兵糧攻めを開始した[15]。11月には光秀の不在を狙って打って出、また翌天正7年(1579年)1月にも戦闘が行われたと見られ、八上城を包囲する小畠越前守が討死している[16]。2月には商人の兵庫屋惣兵衛に徳政の免除などをしており[17]、外部から籠城への支援があったとも考えられる[18][注釈 2]。しかし光秀方の包囲が厳重さを増す中、兵糧も尽き、天正7年(1579年)6月1日、調略にともなう味方の裏切りによって秀治ら波多野兄弟は捕らえられた[20]。その後、弟二人とともに安土に送られ、同年6月8日に安土の「慈恩寺町末」(慈恩寺町の外れ[21])でに処された[22][注釈 3]辞世は、「よはりける 心の闇に 迷はねば いで物みせん 後の世にこそ」[24]。なお、兵庫県丹波篠山市味間奥にある波多野秀治墓には「天正六戊寅年 六月十日戦死」とある。

死後

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丹波篠山市に伝わる伝承によると、秀治の次男・甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ち延びた[25][26]。のち、波多野定吉と名乗り、篠山藩に仕えたという[25][26]

大正4年(1915年大正天皇即位の大嘗祭に際して史上の功臣300余人に贈位することとなった[27]が、秀治は一族・波多野宗高とともに従三位を贈位されている[1]。これは永禄3年(1560年)に正親町天皇が即位の礼を上げた際、毛利元就とともに金銭面・軍事面で特に助力を行ったと認められたことによる[28]

家臣

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登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 文化文政1804 - 1830年)頃の成立と推測[2]される軍記物『播州太平記』[3]は別所長治の妻を波多野秀治の娘としているが[4]、別所長治家臣・来野弥一右衛門により書かれた[5]『別所記(別所長治記)』[6]や織田方の史料『播州御征伐之事』[7]大村由己著)・『信長公記[8]太田牛一著)にその記述は見られない。
  2. ^ ただしこれは籠城に詰めたことを賞したものとも見られ[19]、八上城外部からの支援があった証拠にはならないとも考えられる。
  3. ^ 信長公記』は磔を6月4日のこととしているが、6日に京都を通るのを吉田兼見が見物していることから、『兼見卿記』の6月8日が正しいと考えられ[23]谷口 (2010, p. 362) も6月8日としている。

出典

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  1. ^ a b 河野 1916, p. 235.
  2. ^ 橘川 & 西川 2004, p. 11.
  3. ^ 橘川 & 西川 2004, pp. 129–214.
  4. ^ 橘川 & 西川 2004, p. 195.
  5. ^ 橘川 & 西川 2004, pp. 9–10.
  6. ^ 塙保己一 編「別所長治記」『群書類従 第拾四輯』経済雑誌社、1894年、455–480頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783/232 
  7. ^ 塙保己一 編「播州御征伐之事」『群書類従 第拾四輯』経済雑誌社、1894年、481–486頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783/245 
  8. ^ 奥野高広岩沢愿彦校注『信長公記』角川書店角川文庫〉、1969年、307–311頁。 
  9. ^ 福島 2009a.
  10. ^ 福島 2009b, pp. 109–110, 114, 120.
  11. ^ 福島 2009b, p. 131.
  12. ^ 藤田達生 著「八上城とその城下町の変容」、八上城研究会 編『戦国・織豊期城郭論 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』和泉書院〈日本史研究叢刊12〉、2000年、32頁。ISBN 4-87088-996-X 
  13. ^ a b 谷口 2010, p. 362; 細見 1988, p. 64; 福島 2009a, p. 11.
  14. ^ a b 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, pp. 208–209; 福島 2009a, p. 11.
  15. ^ 仁木 2019, p. 214.
  16. ^ 仁木 2019, pp. 217–218.
  17. ^ 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, p. 218.
  18. ^ 仁木 2019, p. 218.
  19. ^ 福島克彦「丹波波多野氏の基礎的考察(上)」『歴史と神戸』第216号、1999年。 
  20. ^ 仁木 2019, pp. 218–220; 細見 1988, pp. 66–68; 福島 2009a, p. 11.
  21. ^ 久下隆史「丹波の街道から戦国の世を偲ぶ」『平成25年度 講座「丹波学」講義録』丹波の森公苑、2014年、5頁https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h25tnb.pdf 
  22. ^ 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, p. 219; 細見 1988, p. 68.
  23. ^ 細見 1988, p. 68.
  24. ^ 奥田楽々斎『多紀郷土史考 上巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、212頁。 
  25. ^ a b 田中貞典. “八上城の危機を救おうとした四十九院の修業僧”. 丹波篠山へのいざない. 篠山の民話集. 丹波篠山市. 2021年4月20日閲覧。
  26. ^ a b 奥田楽々斎『多紀郷土史考 上巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、212–213頁。 奥田楽々斎『多紀郷土史考 下巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、213–214頁。 
  27. ^ 河野 1916, 凡例1.
  28. ^ 河野 1916, pp. 239–240.
  29. ^ アルファセレクション〈公式〉 [@a_selection_pro] (2021年1月30日). "【出演情報/白畑真逸】". X(旧Twitter)より2021年11月20日閲覧

参考文献

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関連項目

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