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浜浦徹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浜浦 徹
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県津久見市
生年月日 (1952-08-22) 1952年8月22日(72歳)
身長
体重
178 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト2位
初出場 1971年4月18日
最終出場 1980年8月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

浜浦 徹(はまうら とおる、1952年8月22日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手投手)。

NPBとMLBによる史上初の日米間の国際トレードを経験した。

来歴・人物

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津久見高では3年次の1970年春の選抜にエースとして出場。1回戦で米子東高に完封勝利したが、2回戦では千葉商の永島時郎(日本通運)、高浦美佐緒のバッテリーに抑えられ惜敗[1]。同年夏の甲子園予選は故障で登板できず、中九州大会決勝で、エース小川清一を擁する大分商に敗退。1学年下のチームメートに橘健治岩井隆之がいた。

同年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団し、1年目の1971年にはアリゾナキャンプでメジャーリーガーを相手に物怖じせず、速球を投げる姿に一躍首脳陣は大喜びした。「さすが金の卵。今年の新人王の最有力候補」と騒がれ、濃人渉監督の構想にも「シーズン初めはファームでじっくり育てて、投手がばててくる夏場には一軍に上げよう」と浜浦の名は刻み込まれたほどであったが、浜浦はキャンプの構想より早いピッチで一軍再登板を目前にし、イースタン・リーグで2勝をマーク。勢いに乗って4月18日東映戦(後楽園)で初登板を果たすが、リリーフに出た1イニングだけで2安打1失点と打ち込まれた。5月下旬の練習中に右肘を痛め、ファームで再調整となり、コントロールと変化球のレパートリーを増やす特訓を受けた。「もう大丈夫です。カーブだってストライクを取れる。スライダーもシュートも放れます」という浜浦に中西勝己二軍投手コーチも「ナイターなら一軍でも速球とカーブで5回ぐらいなら持つだろう」と見ていた矢先の右肘痛で、3週間休んで鍼治療マッサージを受けた。実戦復帰となったイースタンのヤクルト戦ではコントロールがなくなり、また腕が縮んだ。その後は3連勝し、通算5勝0敗という好成績で再び大物ぶりを見せ、5勝目を飾った8月24日巨人戦(宇部)では、立ち上がりに2本の本塁打を打たれたが、3回から立ち直って見事な完投勝ちを挙げる。ジュニアオールスターにも出場するが、一軍登板は1試合だけであった。

同年10月のアリゾナ教育リーグで渡米して好投[2]。試合を見ていたマイナーリーグ3Aフェニックス・ジャイアンツ関係者に高評価され[2]、ブルペンでピッチングしているところは、メジャーリーグサンフランシスコ・ジャイアンツ関係者が一目惚れした[3]

2年目の1972年春にサンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学していた際、ジャイアンツがロッテに譲渡を申し入れる。ロッテ側は交換トレードなら応じると回答したことから、初の日米間の交換トレードとしてフランク・ジョンソンとの交換でフェニックス・ジャイアンツに移籍[2]大洋から移籍した高橋重行とチームメイトになり、現地では同じアパートで暮らした[2]。アメリカでは1Aフレスノに所属し、奪三振王に輝き2年連続で10勝した。

その後は1974年太平洋クラブライオンズへ移籍し、日本球界に復帰した。太平洋クラブ入団時は長髪にサングラスという風貌で、本人曰く「当時はアメリカかぶれしていた」という[4]。速球に威力があり先発陣の一角として起用され、8月29日の日本ハム戦(神宮)で初勝利を挙げたが、浜浦は6回から救援を仰いだ田中章のピッチングに一喜一憂した。6回表一死から白仁天に2ラン本塁打を喫して降板したにもかかわらず、ベンチから出ようともせず、ゲームを見つめ通しであった。7回には1点差に追い上げられて初勝利が危うくなると、ベンチで落ち着かなくなり、稲尾和久監督から「少しはジッとして座っとらんか」と怒られる始末であった。8回に梅田邦三の適時打が出て勝利が決定的となった瞬間、喜んだ浜浦は思わずベンチの天井に頭をぶつけてしまった。同年の日米野球では太平洋・巨人連合チームの一員として試合に出場。11月16日の第15戦(平和台)に3番手で登板し、ニューヨーク・メッツを相手に見事勝利投手となった。

右オーバースローからのストレート、カーブ、スライダー、チェンジアップを武器としたが、その後は制球力に課題があって伸び悩む。球団が西武に変わった1979年は開幕から二軍暮らしが続き、8月22日近鉄戦(日生)でシーズン初登板を果たすも、2イニングを投げてクリス・アーノルド梨田昌孝栗橋茂に本塁打を浴びるなど自責点5であった。同27日の日本ハム戦(西武)では、投手でありながら野村克也の代走として起用されると、その後も同30日のロッテ戦(西武)では長谷川一夫9月9日阪急戦(西武)でも再び長谷川の代走として出場した。本職の投手としては、チームが一方的にリードされた展開での登板に限られた。この年は、6試合のみの登板も全ての試合で失点し、投球回数12イニングを上回る14失点で自責点は11であった。1980年7月1日のロッテ戦(西武)で投手でありながら田淵幸一同27日南海戦ダブルヘッダー第1試合(大阪)でも大田卓司の代走として起用され、浜浦自身6年振りとなる得点も記録。本職の投手としては、8月1日の南海戦(西武)でシーズン初登板するが、4番手として4点リードされた7回から登板も2失点し1イニングで交代。続く同11日の日本ハム戦(後楽園)では3番手として5点リードされた7回から登板するが、7回、8回にそれぞれ1失点し、防御率は12点台まで悪化し二軍へ降格。そのままシーズンを終え、この年限りで西武を退団。

1981年に古巣・ロッテに復帰するが、一軍登板の機会はなく同年限りで現役を引退。

引退後は佐川急便に入社し、九州ローカルセンター所長を務めた[5]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1971 ロッテ 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 6 1.0 2 0 1 0 0 1 0 0 1 1 9.00 3.00
1974 太平洋
クラウン
西武
20 7 1 0 0 4 2 0 -- .667 352 84.1 61 9 42 1 4 63 2 1 35 32 3.43 1.22
1975 28 12 2 0 0 2 8 0 -- .200 520 114.1 120 19 62 0 5 57 1 1 67 63 4.97 1.59
1976 22 14 1 0 0 4 7 1 -- .364 372 81.2 97 8 34 0 5 32 4 1 63 60 6.59 1.60
1977 14 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 163 37.0 43 3 20 0 1 19 2 0 21 20 4.86 1.70
1978 10 7 0 0 0 1 3 0 -- .250 127 26.0 36 4 16 0 0 11 1 0 25 19 6.58 2.00
1979 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 57 12.0 12 6 7 0 0 9 0 0 14 11 8.25 1.58
1980 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 17 3.0 5 0 1 0 2 0 0 0 4 4 12.00 2.00
通算:8年 103 42 4 0 0 11 22 1 -- .333 1614 359.1 376 49 183 1 17 192 10 3 230 210 5.26 1.56
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

背番号

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  • 14 (1971年)
  • 19 (1974年 - 1977年)
  • 13 (1978年 - 1981年)

脚注

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ a b c d 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 米球界に挑戦する浜浦徹、高橋重行の事情/週べ回顧1972年編
  3. ^ 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 初の日米トレード決定/週べ回顧1972年編
  4. ^ 『ライオンズクラシック2010』トークショーでの発言。尚、入団して竹之内雅史に挨拶した際に「散髪行ってこい」と言われたという。
  5. ^ 森山真二「わが青春の平和台」海鳥社1998年8月1日ISBN 978-4-87-415246-1、p208。

関連項目

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外部リンク

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