浮谷竹次郎
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日[1][2] - 1965年(昭和40年)3月8日[3][4])は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。
経歴・人物
[編集]浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる[2]。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた[5][6]。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学[注釈 1]予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する[1]。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ[1]。
ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任[1][2]。1925年(大正14年)より市川町会議員に3回当選し、1930年(昭和5年)2月に同町長に就任し2期務めた[1]。さらに1932年(昭和7年)1月、千葉県会議員に当選し、1934年(昭和9年)12月に市制施行により市川市が成立すると同市会議員を経て、同月、同市長に就任した[1]。市長は1940年(昭和15年)まで務めた。
戦後、市長公選制の導入により、1947年(昭和22年)に市川市長に復帰、2期務め、1955年(昭和30年)に一度退任。翌1956年(昭和31年)市川市長織田智の退任による市長選挙に立候補し、当選。1964年(昭和39年)までの通算8期21年半に渡り市長を務めた[4]。ケンカ竹の異名を持ち、昭和30年代には海岸埋め立てを強行し、企業を57社誘致した[4]。
栄典
[編集]- 位階
親族
[編集]- 父:浮谷権兵衛16代(隠居名・本楽。市川新田の地主で市川町長も務めた)
- 長兄:浮谷権兵衛17代(実業家、千葉県多額納税者)[2]
- 岳父:本多貞次郎(京成電鉄創業者、衆議院議員、市川町町長、北総鉄道社長、成田鉄道社長)[7]
- 妻のキンは(1894年生)は栃木県士族小川忠吉の二女で本多貞次郎の養女[8]。宇都宮高女卒[9]。
- 子に貞雄、清、豊、春枝、栄子。
- 甥の子に浮谷東次郎。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 帝国自治協会 著『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。