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海山元珠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

海山 元珠(がいざん げんしゅ、永禄9年9月1日1566年10月23日) - 寛永19年1月23日1642年2月22日))は、安土桃山時代から江戸時代日本の僧侶。臨済宗妙心寺派に属した。方広寺鐘銘事件の折に、五山増や林羅山徳川家康におもねた見解を提供したなか、唯一徳川方の思惑に与しない意見を述べた。  

来歴

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12歳の時に美濃国華渓寺に入り、南化玄興に師事する。16歳の時に南化から安名を受ける[要出典]。その後、南化に髄侍して妙心寺塔頭の大通院を経て、尾張国一宮妙興寺に至る[1]

文禄2年(1593年)、豊臣秀吉が2年前に死去した豊臣鶴松の菩提を弔うため、京都に祥雲寺(現在の智積院の場所にあった)を建立して南化を招くと、海山は南化の下で寺役を勤めた[1]

慶長3年(1598年)、伏見留守居役千坂景親(法名:宗策居士)の開基による妙心寺塔頭亀仙庵(後の雲祥院)の開祖となる[2]

慶長6年(1604年)2月、伏見で死去した菊姫上杉景勝正室で、武田信玄の娘)の葬儀を病中の南化玄興に代わり執り行う[3]。同年5月に南化玄興が死去。

慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件の際、徳川方が鐘銘文「国家安康、君臣豊楽、子孫殷昌」の解釈を五山僧、林羅山及び海山元珠に依頼したところ、五山僧、林羅山は徳川方におもねる説を提供したが、海山元珠のみ徳川方の思惑に与しない意見を述べた[4]。川上孤山の筆になる『妙心寺史』においては「吾人はここに時勢に抗し権勢に阿諛(あゆ)せざる底の一海山を得しことは喜ばざるを得ないのである」と賞している[1]。しかし、この説は徳川家康の忌触を買い、海山元珠は祥雲寺から追放、寺地も没収され、智積院に与えられた。

海山元珠は祥雲寺を去る時、南化玄興と棄君(鶴松)の木像を背負い妙心寺に帰った[1]。このとき、海山が持ち帰った棄君木像は、重要文化財「豊臣棄丸座像と玩具船」として所蔵されている(京都国立博物館に寄託)。また、没収された祥雲寺の名残りを残すために、自坊「亀仙庵」を祥雲寺の名を逆さにした「雲祥院」と改名した[5]

登場作品

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主人公の塙直之が「鉄牛」という雲水名で妙心寺「大竜和尚」の下に世話になっている時の話が出ているが、この「大竜和尚」とは海山元珠のことである[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d 「海山と大佛鐘銘事件」『妙心寺史(下)』pp.53 - 54
  2. ^ 「亀仙庵」については『妙心寺史(上)』p.238、pp.326 - 327および『妙心寺史(下)』p.54、pp.158 - 159 の4カ所に記載されている。開基者として「千坂宗策(景親)」の他に直江兼続もあげられているが、「千坂景親」の法名「鶴齢院殿亀仙宗策居士」に因んで名付けられた庵なので、開基者は「千坂景親」である。[独自研究?]
  3. ^ 「上杉家と妙心寺」『妙心寺史(上)』p.238
  4. ^ 『妙心寺史(下)』p.53の「海山と大佛鐘銘事件」に海山元珠の見解が掲載されている。「清韓文章を以て世に鳴る、下愚筆力を知るにあらざれば減否を決しがたし之を心ありと謂はば則心あらむ、清韓は凶詞を知りてかくべからず、唯天下の太平を祝し檀那の功徳を著はすのみ(『武徳編年集成』)」。清韓とは鐘銘を撰文した文英清韓。意訳:清韓は文章で世に出た者なので、愚か者や文章力のない者に清韓の文章の是非を判断することはできないが、異心ありかと言われれば、それは無い。 ただ、天下泰平を願っているだけだ。
  5. ^ 竹貫元勝「文英清韓と海山元珠」『禅文化』No.157、禅文化研究所、1995年7月

参考文献

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  • 川上孤山『妙心寺史』(上・下)妙心寺派教務本所 、1921年