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妙興寺 (一宮市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
妙興寺
仏殿(一宮市指定有形文化財)
所在地 愛知県一宮市大和町妙興寺2438
位置 北緯35度17分4.8秒 東経136度48分2.3秒 / 北緯35.284667度 東経136.800639度 / 35.284667; 136.800639座標: 北緯35度17分4.8秒 東経136度48分2.3秒 / 北緯35.284667度 東経136.800639度 / 35.284667; 136.800639
山号 長嶋山(ちょうとうさん)
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦三尊
創建年 貞和4年(1348年
開基 滅宗宗興、南浦紹明(勧進開山)
正式名 長嶋山 妙興報恩禅寺
文化財 勅使門、紙本着色足利義教像、木造大応国師坐像ほか(重要文化財)
梵鐘ほか(愛知県指定有形文化財)
境内(愛知県史跡)
法人番号 8180005010143 ウィキデータを編集
妙興寺 (一宮市)の位置(愛知県内)
妙興寺 (一宮市)
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上泉信綱修道跡の碑
足利義教像

妙興寺(みょうこうじ)は、愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院

概要

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山号は、長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は詳しくは妙興報恩禅寺と称し、宗派臨済宗妙心寺派に属する[1]本尊如意輪観世音菩薩釈迦三尊、開山は滅宗宗興である[1]。周囲には、五つの塔頭がある。古より「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われる。

新陰流開祖上泉信綱が修行した。無刀取り発祥の地。修行道場として僧堂が設置されている。

現在では尾張地方の屈指の大禅寺となっている[2]

歴史

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創建以前には妙興寺廃寺(妙興寺跡)と呼ばれる古代寺院が建っており、境内各所から出土する奈良時代の瓦によって8世紀には寺院建築が存在したことが確認されている。その後寺院は、いつしか衰退し廃寺になった。数百年後の貞和4年(1348年) 尾張国中島城中島蔵人の次男滅宗宗興(円光大照禅師[2])が亡き父母の報恩に感謝するために創建され、先師にあたる南浦紹明(なんぽじょうみん)を勧請開山とした。伽藍が完成したのは貞治4年(1365年)のことである。この間、文和2年(1353年)には 足利義詮祈願所となり諸山に列し、延文元年(1356年後光厳天皇勅願寺となっている。最盛期には、境内塔頭8、末寺13あったという。

ところが、応仁の乱を境に足利将軍家の庇護を失い、戦国時代の戦乱によって多くの寺領を失い衰微する。一方で、前野広久による医王山天福寺の寄進のように、焼失した小規模の寺から寺領を寄進されることもあった[3]

天正18年(1590年)寺の荒廃を憂いた豊臣秀次(あるいは豊臣秀吉)によって京都妙心寺から南化玄興が招聘され再興がはじまり、この時から妙心寺の末寺となった。秀次が200石を寄進した後、秀吉が300石を朱印地として宛てがい、後に松平忠吉に200石に減らされるも、これが尾張藩主によって代々安堵された。

明治23年(1890年)に火災で伽藍等の主要堂宇を焼失し[1]方丈は明治26年(1893年)、庫裏は明治30年(1897年)にそれぞれ再建された。重要文化財の勅使門は、創建当初来の遺構を今日に至るまで伝えている。当門には1353年、後光厳天皇より賜った勅額「国中無双禅刹」が掛かっている。

  • 開山:大応国師 南浦紹明 延慶元年十二年廿九日遷化
  • 創建:円光大照禅師 滅宗宗興 永徳元年七月十一日遷化
  • 一世:正宗大暁禅師 峰翁祖一
  • 二世:心王守性禅師 大興定菴
  • 三世:大機円融禅師 聖翁享庵
  • 四世:善一禅師
  • 五世:伝心宗蜜禅師
  • 六世:了山覚禅師

伽藍

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境内全域が愛知県指定史跡であり、一宮市博物館が設置されている

文化財

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重要文化財

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左より滅宗宗興(大照禅師)、達磨大師、南浦紹明(大応国師)像
  • 勅使門
  • 紙本著色足利義教像 瑞渓周鳳賛 - 賛の右下に足利義政花押がある。賛によれば永享4年(1432年)秋、義教が富士遊覧と称して駿河へ下向した際、妙興寺に半日滞在し、寺号額「妙興報恩禅寺」を与えたという。また長禄2年(1458年)義教の子・義政が妙興寺などの寺領を安堵した縁により、義教供養のため同寺住職の古伯眞稽が制作させたという。
  • 絹本著色仏涅槃図
  • 絹本墨画白衣観音(びゃくえかんのん)図 良全筆 乾峰士曇賛 - 鎌倉から南北朝時代(14世紀)
  • 絹本著色道仏二教諸尊図 4幅 - 中国・南宋から元時代(13世紀後半)。寛永8年(1631年)柳生利厳が表装し直して寄進
  • 絹本著色十六羅漢像 16幅 - 中国・元時代。同じ年利厳が表装し直して寄進
  • 絹本墨画著色金泥文殊図 空谷明応賛
  • 木造大応国師(南浦紹明)坐像 - 鎌倉時代(14世紀)南浦が示寂した延慶元年(1308年)からあまり経ってない頃の作
  • 九条袈裟(南浦紹明所用、田相薄茶地四葉花文顕文紗、条葉紺地四葉花折枝文顕文紗)(附:環2枚、坐具2枚)[4] - 南宋から元時代(13世紀後半)
  • 九条袈裟(滅宗宗興所用、田相黄地桐竹鳳凰麒麟文綾、条葉薄茶地二重蔓牡丹唐草文綾)(附:坐具1枚)[4] - 南北朝時代
  • 妙興寺文書 549通

※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000年)による。

愛知県指定有形文化財

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  • 梵鐘
  • 南浦紹明塔銘牌 - 木製1基。享徳2年(1453年)妙興寺27代住持無隠徳吾が造立。
  • 紙本著色豊臣秀吉像 - 南化玄興賛(慶長5年(1600年))、伝狩野山楽
  • 紙本墨画神農図 - 江戸時代(17世紀)神前松徳筆、蘭叟紹秀賛
  • 紙本墨画達磨図 - 江戸時代(17世紀)神前松徳筆、蘭叟紹秀賛
  • 木製漆塗彫根来大香合 - 室町末から安土桃山時代(16世紀)南化玄興所用と伝えられる。

一宮市指定有形文化財

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釈迦三尊像
  • 不動明王像 - 平安時代(10-11世紀)
  • 天部立像 2躯 - 平安時代(10-11世紀)
  • 釈迦三尊像 - 南北朝時代(14世紀)院派仏師院遵(院吉の子、院広の弟)作
  • 軒丸瓦 - 奈良時代(8世紀)尾張国分寺所用瓦
  • 木造滅宗宗興坐像 - 南北朝時代(14世紀)滅宗の没する永徳2年(1382年)前後の作
  • 絹本著色南化玄興像 - 安土桃山時代(16世紀)自賛
  • 紙本墨画出山釈迦図三尊図 - 室町時代(15世紀)伝祥啓
  • 絹本墨画淡彩不動明王像 - 嘉慶元年(1387年)龍湫周澤賛筆
  • 紙本墨画淡彩寿老人図 - 室町時代(15世紀) 万里集九
  • 紙本墨画著色竹雉子図 足利義継筆 - 室町時代(16世紀)足利義継は足利将軍家の一人か。
  • 鷹図 - 室町時代(15世紀)万里集九賛
  • 絹本墨画柳牛図 - 中国・元時代(13-14世紀)毛倫筆
  • 紙本墨画著色五位鷺図 - 江戸時代(17世紀)伝相阿弥筆とされるが筆法は狩野派
  • 絹本墨画墨梅図(白梅図) - 中国・明時代(14-17世紀)伝楊補之筆
  • 紙本墨画墨梅図(紅梅図) - 室町時代(16世紀)雪崖筆
  • 破墨山水図 - 室町時代(15世紀)伝雪洞筆
  • 蓮鷺図双幅 - 室町時代(15世紀)雪洞筆
  • 喚鐘 - 享徳2年(1453年)青銅製
  • 手水鉢 - 江戸時代(18世紀)御庭焼。尾張藩主によって寄進
  • 朱漆沈金膳 - 室町から安土桃山時代。寺伝では南化玄興が豊臣秀吉から拝領したという。
  • 湖州鏡 付朱漆塗鏡筥 - 中国・宋時代(10-13世紀)
  • 建造物 16棟 - 総門・三門・仏殿・客殿・庫裡・唐門・開山門・玄関・禅堂・開山堂・侍者寮・衆寮・書院・明暢亭・雪爪庵・宝蔵・弁天堂[5]

※ 他にも文化財が多数あり、尾張の正倉院とも呼ばれる。

塔頭

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耕雲院、種玉院、太陽院、清寥院、来薫院の5か院がある。このほか、かつては西住院、瑞芳院もあったが、現在は故地を離れている。また、来薫院の北側に桂昌院があった。

妙興寺そば

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全国的に知られる妙興寺そばは、妙興寺僧侶が考案したとされる。

所在地

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  • 愛知県一宮市大和町妙興寺2438

交通手段

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周辺

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脚注

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  1. ^ a b c 妙興寺勅使門(みょうこうじちょくしもん)”. www.pref.aichi.jp. 2023年6月5日閲覧。
  2. ^ a b 妙興寺鐘楼(みょうこうじしょうろう)”. www.pref.aichi.jp. 2023年6月5日閲覧。
  3. ^ 『尾張妙興寺文書、一宮市史資料編五』No.466 前野広久書状、No.474 前野広久判物
  4. ^ a b 平成26年8月21日文部科学省告示第106号
  5. ^ 所報(2018年4月号)

参考文献

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  • 一宮市博物館編集・発行 『常設展示リニューアル記念 特別展 妙興寺展』 2014年10月17日

外部リンク

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