清原滝雄
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 延暦18年(799年) |
死没 | 貞観5年1月11日(863年2月2日) |
官位 | 従四位上、中務大輔 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 清原氏 |
父母 | 父:清原夏野 |
兄弟 | 滝雄、沢雄、秋雄、春子 |
清原 滝雄(きよはら の たきお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右大臣・清原夏野の次男。官位は従四位上・中務大輔。
経歴
[編集]淳和朝の天長3年(826年)右兵衛少尉に任官したのち、右衛門大尉・左衛門大尉と武官を歴任する。天長7年(830年)父・夏野が新たに造営した双岡山荘に淳和天皇が行幸した際、滝雄は従五位下に叙爵される。天長8年(831年)侍従次いで雅楽頭に任ぜられる。
仁明朝の承和元年(834年)4月に嵯峨上皇が双岡山荘に行幸した際、夏野の3人の息子が昇叙されたが、滝雄は従五位下から従四位下へと一挙に4階の加叙を受け、同年7月には参議に昇進した藤原良房の後任として蔵人頭に任ぜられる。承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い喪に服すが、ひどく嘆き悲しんで痩せ衰えてしまったという[1]。承和7年(840年)病気を理由に蔵人頭を解任される。
嘉祥3年(850年)文徳天皇が即位すると従四位上に昇叙され、治部大輔に任ぜられる。仁寿4年(854年)安芸守として地方官に転じ、文徳朝末の天安2年(858年)中務大輔に遷り京官に復す。
貞観5年(863年)1月11日卒去。享年65。最終官位は従四位上行中務大輔。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 天長3年(826年) 日付不詳:右兵衛少尉
- 天長4年(827年) 日付不詳:右衛門大尉
- 時期不詳:正六位上。左衛門大尉
- 天長7年(830年) 9月21日:従五位下
- 天長8年(831年) 8月:侍従。日付不詳:雅楽頭
- 時期不詳:中務大輔[2]
- 承和元年(834年) 4月21日:従四位下。7月:蔵人頭[2]
- 承和4年(837年) 10月:辞官(父服喪)。12月:復本官
- 承和7年(840年) 正月30日:美作守。2月:解蔵人頭[2]
- 嘉祥3年(850年) 4月17日:従四位上。11月23日:治部大輔
- 嘉祥4年(851年) 4月1日:出居侍従
- 仁寿4年(854年) 正月16日:安芸守
- 天安2年(858年) 5月11日:中務大輔。8月27日:装束司(文徳天皇崩御)
- 貞観2年(860年) 8月:辞官(母服喪)。10月:復本官
- 貞観5年(863年) 正月11日:卒去(従四位上行中務大輔)