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清原秋雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清原秋雄
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁3年(812年
死没 貞観16年4月24日874年5月13日
官位 従四位上右兵衛督
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 清原氏
父母 父:清原夏野
兄弟 滝雄、沢雄、秋雄、春子
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清原 秋雄(きよはら の あきお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族右大臣清原夏野の四男。官位従四位上右兵衛督

経歴

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天長8年(831年内舎人承和元年(834年)父・夏野の造営した双岡山荘に嵯峨上皇行幸した際、夏野の子息がそれぞれ昇叙されて秋雄は従五位下叙爵し、同年侍従に任ぜられる。

承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い服喪のために官職を辞すが、翌承和5年(838年)正月には本官に復する。承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、山城国五道の一つである大枝道(山陰道の山城・丹波国境)を守護した[1]。承和13年(846年左兵衛佐に任官する。

文徳朝では左兵衛佐右近衛少将と武官を歴任する傍ら、丹波介信濃介備中権介と地方官を兼ねる。この間の仁寿3年(853年)に従五位上に昇叙されている。天安元年(857年備中権守に転任し、翌天安2年(858年)には豊前守と文徳朝末期には地方官を務めた。

清和朝に入ると、天安3年(859年左馬頭に任ぜられ京官に復す。貞観5年(863年)兄の滝雄の卒去と前後して正五位下に昇叙されると、貞観7年(865年)左近衛権少将、貞観8年(866年従四位下と要職を務めて順調に昇進する。その後散位となるが、貞観12年(870年大和権守に任ぜられ、右兵衛督を経て、貞観16年(874年)従四位上に至る。同年4月24日卒去。享年63。最終官位は従四位上行右兵衛督兼越前権守。

人物

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射芸が得意で好んで強弓を引き、他に並び立つ人がいないほどの腕前であった。一方で、些細な行動を修めることをしなかった。また、飲酒が度を過ぎており、晩年は酒に酔いつぶれる日々を過ごし、殿上への出仕も十分にできないほどであったという[2]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本後紀』承和9年7月17日条
  2. ^ 日本三代実録』貞観16年4月24日条

参考文献

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