清田儋叟
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清田 儋叟(せいた たんそう、1719年(享保4年) - 1785年5月1日(天明5年3月23日))は江戸時代中期の儒学者[1]。名は絢[1]。字は元琰、君錦[1]。通称は文興、文平[1]。儋叟は号[2]。別号に孔雀楼[1]。
経歴・人物
[編集]京都の儒学者伊藤竜洲の三男として生まれ、父の本姓清田氏を称した[1][2]。長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた[2]。青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ[2]。1750年(寛延3年)31歳で福井藩に仕えたが、主として京都に住んだ[2]。はじめ徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じ越前国福井藩儒となる[3]。1785年(天明5年)3月23日死去。67歳。
著作に「孔雀楼筆記」、「孔雀楼文集」など[3]。